辻川慎一つくば便り
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自分の事ばかり嘆いてはいられない。
今朝出勤前は、こちらに来てからずっと続けて来た「ゴミ当番」でした。今日から、私以外にやる人がいなくなったので「当番」ではなくなりました。
何気に、そんな事の一つ一つが寂しく思えます。
家にある茶碗類一つ一つも、一緒に買って来たもの。
まるで、思い出がたくさんある一緒にいた人を亡くしたみたいな感じさえします。
早いか遅いか、別れは誰にも来るものですが、時間と労力が込められた人との別れと言うのは、例えぶつかった人だからと清々したとはならない。
そんな思いがしております。
今日は、昨日に続いて小学校の送迎バスです。
子どもたちを迎えながら、走る田舎の森林ロードにとても癒されます。
お昼休みは、日陰のある公園の駐車場で頂きました。
しかし、その公園も最近まで一緒に歩いた場所です。手をつないで歩いていたのが、あっという間の別離になってしまいました。
思い出が無い場所が無いくらいに一緒に出かけて、歩いた年月でしたので思い出がある場所ばかりなのです。
気持ちの整理と言うのには、時間が必要なのだとしみじみ思います。
今日シルバー人材から来ている添乗員さんは、女性で福島県出身。東京に出て働き、結婚されてから「伊奈村」に家を立てて住んで来た人でした。
水郡線沿いの出身との事で、元JRだった私を覚えていてくれます。その人からガムを頂きました。
「朝早くて奥さんが大変でしょう?」と聞くので「別れてしまって一人なんです。」と答えました。
「一人は気楽な面と寂しい面がありますね。」とその人も、ご主人を亡くされてから、一人で生きて来られたので実感が込められいる感じでした。
しかし、彼女が違うのはスクールバスの添乗員だけでなく民生委員をしたり、国勢調査員をしたりと地域とのつながりをしっかりと持ちながら、故郷の同級生や昔の同僚たちともつながり続けて、生き生きと生きている事なんですね。
自分よりも高齢者の人たちの事を案じながら、訪ね続けて来たそうです。
「いずれ私もお世話になる時が来るのですから。」それが、彼女の当たり前の考え方で、人の結び付きを楽しそうに生きているのです。
良い人生を送られているなと眩しいくらいにステキな人だといつも思います。
頂いたガムを見ながら、あ~このガムは、JRで25年隔離された売店の一つで売っていたな〜。なんて別の記憶も甦りました。
小学校の校門前に、見た事の無い花がたくさんありました。「ヒメイワダレソウ」と言う名だそうです。繁殖力が強い外来種で雑草扱いなんですね。でもヒマワリの10倍くらい(原発事故で飛び散った)放射線セシウムを吸収する有難い植物と言う記載もありました。
添乗員さんのお話しを伺いながら、元気であればバス運転士の後はそんな仕事がやれたら良いななんて考える私がおります。
自分の事ばかり考えず、少しでも人の役に立てる事をやると言う考え方こそ、幸せなんじゃないか?ってその人を見ていると思います。
昔からの仲間に会うと、みんな昔のままなんですよ。楽しくておしゃべりが終わらないのです。と楽しそうにお話しをします。
そう昔からの仲間の関係の大事さは、楽しい思い出と共にある。そんな事にも気付かされます。
理屈や世間体なんかじゃなく、「自分にできる事をやって、できない事は助けてもらうんですよ。」そうできる関係を築いている。
本当にこの時代と社会に必要なのは、そんな関係の様に思いました。
いつまでも、自分の事を嘆いている場合ではありませんね。
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2025/05/21 12:22
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自分らしく。
昨日は寒く感じましたのに、お天気予報では30℃近くまで気温が上がるとの事。体調の維持が難しいですね。お気をつけ下さい。
今日、明日と珍しく続けて小学校の送迎バスを指示されました。終わりが早い時間の分、休憩時間も工場送迎より短くなります。
さすがに今日は半袖シャツで良いかなと制服のベストを置いて来ましたら、業務に必要な印鑑と修正テープがポケットに入れたままでした。しょうがないので、家に取りに行こうと構えておりましたら、臨時のミーティングが入ってしまう始末でございました。
なので時間節約のために、自作お弁当を急ぎ食べた次第です。
原料は自分で選びますので、何が入っているか分からない、薬漬けコンビニ弁当よりは安全かと思います。
ミーティングの方は、お客様からのクレームがあってドラレコをランダムにチェックしたら、色々と問題が出て来たので注意するとの内容でした。
こんな時は「自分の事かな?」と反省しながら考えます。自分は大丈夫!なんて事は無いのですね。何しろグレーゾーンがあり、それを無事、安全に切り抜けてのプロなのですから。
だからこそ、心に余裕が無いとしっかり周りを見ながら運転すると言う事が大切なんですね。そう言う事が見えて参りました。
年なのに、見える様になるって不思議な感覚でございます。
でもなかなか自分の事は見えないのです。
息子に死なれ、元の家族とはつながりが切れ、新しく築こうとした家族も破局、高齢の両親を送ったら何も残らない。頑張っては来たけれど、何だか恨まれるばかり。
そんな事を考え出すと、一体私の人生に何の意味があるのだろう?生きていてもしょうがない。なんて暗く落ち込んでしまいます。
どうも無敵の様に、鬼になって立ち続けていた昔のイメージが強い様で、弱ってる?そんな訳無いでしょう!
そんな風に思われているのかも知れません。
昨日は会社に咲いているバラを失敬して、家に飾りました。
アジサイや桔梗など綺麗に咲いていると(もちろん宅地や公園外ですが)別れた妻に喜んでもらおうと摘んで来ました。
落ち込んだ心が、ちょっと華やぎます。母も同じ事をしていたので驚きます。きっと同じだったのですね。
ブログを心待ちしてくれている人から「辻川さんはナイーブな人です。」とメッセージを頂き、自分でも驚きます。
そう言えば、ナイーブって何だろう?
「ナイーブ」は、人の性格や考え方などが、素朴で純真、または感受性が豊かであることを指します。また、世間知らずで考えが甘い場合にも使われます。
とありました。う〜ん。世間知らずで甘いと言うのはバッチリあてハマります。素朴で純真と言うのもそうかもしれません。
まあ、とにかくリーダーの役割を果たすためにと、自分自身を振り返るなんて事はありませんでしたが、自分の心と違うイメージを作って来たバチが当たっているのかも知れません。
別れた妻にも「もっと堂々として、格好良い人かと思っていた」と失望されてしまいましたので。気温差なんてレベルでないギャップがあったのかも知れません。
どうなる事やら分かりませんが、自分の本心に聴きながら、自分らしく生きて行くしか無い様です。
それでは、子どもたちの帰りを守る午後便に出発致します。
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2025/05/20 12:10
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侍タイムスリッパー
5月でも、今日は寒い日になりました。
私の方は、工場労働者の送迎バス担当です。
約50年前の5月23日も、同じ様に雨が降り寒い日でございました。
まだ10代の学生だった私は、東京でデモの隊列の中におりました。狭山事件で、無実でありながら無期懲役刑にされていた石川一雄さんを取り戻せというデモでございました。5月23日というのは、1963年に石川さんが不当逮捕された日だったのです。
労働組合や政治党派に惹かれたのは、社会の矛盾や問題に目を開かせてもらい視野が広がった点にありました。
そして、共通の目的に向かって集団が一つになって行動するという魅力にハマったのだと思います。
デモをしたのは東京のどこだったのでしょうか?寒い中ずぶ濡れになりながら、足並みをそろえてジグザグデモをして機動隊にぶつかって行く。デモの隊列から湯気が立ち上る。そんな光景を記憶しております。
寒いけれど、みんなで一つになれた気持ちがして熱かったのですね。そんな時代だったのかも知れません。
私は、その思いや勢いで国鉄分割民営化との闘いを仲間たちと一緒にやったのだと思います。個別の事情を超えて一つになって行動できるというのは、人間に取っては本質的喜びなのだと思います。
コンサートやスポーツの応援なども、その空間や時間を共有していると言う喜びにあるのは一緒ではないかと思います。
ちょっと違うのは、世のため人のためという大義名分があるという事でしょうか?
昨日は、実家から帰ってちょっと映画を見ておりました。
幕末に、倒幕派と佐幕派に分かれて死闘があったのですが、その殺し合いの最中に雷に打たれて双方二人が現代にタイムスリップしてしまうと言う設定でした。
そして、お互いに命を取り合ってどうなったのかと言う歴史と現実を知ってしまう訳です。
「あれは一体なんだったのか?」「何の意味があったのか?」そんな悲しみと虚しさ。
今度は、時代劇の主役と切られ役になって撮影を真剣で行う。しかし、結局切れない。
そして「俺たちは、あの時代を命をかけて懸命に生きたんだ。それで良いじゃないか。」と言うオチでございました。
「あれは一体なんだったのだろう」と言う言葉は、国鉄改革を進める側にいた元幹部の人が言われた言葉でもありました。
私も同じ様に思っています。
お互いに、お互いの立場から精一杯やって来て今がある訳ですが、「何のために争ったの?」そして「この現状は何?」と言う感覚なんですね。
私について「過去の栄光の中に生きている」なんて言う人もおりますが、破局した結婚生活も含めて「一体何だったのだろう?」と言う問いは、私が生きて来た人生そのものへの問いなんですね。それを問わないままで、別の新しい人生へとはならない私が厳然といるのでございます。
タイムスリッパーと言うのは、ちょっと長生きした全ての人がそうである様にも思います。時代の激変が凄い上に長寿社会な訳ですから。
私は、それを嘆くのでは無くじっくりと見据えたいと思っています。過去に゙生きているのではなく、今を見据えるための振り返り、見直しをしているのだと思っています。
「本」と言う字は、木の根元を表現しているのすね。
根本と言うとさらに深いところを意味しているのだと思います。
根本を探る事。
果たせない事なのでしょうけれど、人として生まれた根本的な欲求である様に思います。
未選択
2025/05/19 13:12
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鉛筆を削りながら。
私の拙く、特別でもない労働者の日々のブログを楽しみにしていると言ってくれる「読者」のみなさまに改めて御礼を申し上げます。
昨日は「相談がある」と言う母の求めがあり、ひたちなか市の実家に行って来ました。
相談と言うのは、85才になっても父の病院やら買い物やらと車を運転して来た母が「車を運転するのが怖くなって来た。」と言い「お前がおいでと言ってくれるので、一緒に住みたいと思う。」との事でございました。
私の方も、そろそろ限界だよなと思っておりましたので「それが良いと思うよ。離婚して部屋も空くから。」と即答した次第でございます。
危ない事ばかりして、散々迷惑と心配のかけ通しだった両親を最後に私が見ると言うのは、当たり前の事でもあり天の導きの様にも思った次第です。
「孝行をしたい時には親は無し」と昔から言われておりますし、実際に残念な気持ちでおられる人も多い中で、親孝行が出来ると言うのは幸運な事の様です。
いつもながら、母が心尽くしの手料理を用意してくれました。
並でない親不孝人生を送って来た私に、親孝行ができるのか?そう簡単では無い事だとは思っております。
しかし、私は働きながら私を育ててくれた両親の姿を見て育ちました。労働運動や政治運動にまい進したのも原点は、両親の姿にありました。
実家に行くと、いつも母は「お帰り」と言います。ようやく慎一が戻って来た。このままここに居て欲しい。それが母の一番の願いだったからなんですね。
私がそばにいるだけで安心する母なので、そばにいるだけで親孝行になる様です。
母親と言うのは、そう言うものなのかも知れません。
と言う訳で、1年くらいは静かに一人暮らしをしたいと言う、私の野望がまたしても打ち砕かれる事になりました。
どうもそんな贅沢を、天はお許しにならない様でございます。
私が静かに勉強できる様にと作ってくれた部屋でございます。
寝転がって、文学全集などを読みふけっていた懐かしい部屋でもございます。
両親が私のところに来ますので、実家も解体する事になります。
目が覚めて本を読み出して、傍線を引こうとしましたら、赤いボールペンが見当たりません。色鉛筆がありましたので、カッターナイフで鉛筆を削る事にしました。
小学生低学年の頃、鉛筆を綺麗に削る女の子がいて感心していたのを思い出しました。
今時は、刃物で鉛筆を削るなんて言う面倒な事はしませんね。しかもカッターナイフで切りつけるなんて言う事件が起きたりで、禁止になっているのでしょうか?
刃物で鉛筆を削ったりすると、失敗して自分の指を切ったりしました。すると当然血が出るし、痛いのです。自分が痛いのを知るので、それで人を傷つけるなんて事は考えませんでしたね。
そうして、削るのが上手くなって行くだけでなく、同時に大切な事を学んでいた様に思います。
何より心を落ち着けて、集中すると言う事の大切さも身に付けて行った様に思います。
危ないからと、子どもたちから何でも取り上げてしまうのは小さな失敗から学び、大きな失敗にも挫けず学ぶと言う力を奪ってしまう様にも思います。
昭和の鉛筆削り。私も使っておりましたが、いつの間にか電動になりました。今はどうなんでしょうね。
ちなみに、鉛筆メーカーではトンボ鉛筆と三菱鉛筆がおなじみでした。中学生の頃でしたかトンボのMONOと三菱のUniと言うちょっとお高い鉛筆が発売された時の、書き味の凄さは革命的な衝撃だったのを覚えております。
ところで三菱鉛筆と言うのは、三菱グループとは全く違う会社なんですね。三菱グループよりも古くからあった会社なので同じマークになっているだけとの事です。
そんな訳で、朝から鉛筆を削りながら心を落ち着かせた次第です。
読み始めた本です。ブックオフで220円で買っておいたのですが、ようやく読み出しました。
なかなか面白い内容です。1000年も続いた空前絶後の巨大帝国ローマはいかにして作られ、維持されていたのか?
人間を横のつながりだけではなく垂直な歴史の時間軸から見る。
「ローマ人は人間性に対する幻想は抱かなかった、と言う事は自分自身に対する幻想も抱く事なく行動した。」「人間は誰でも失敗を認めたくない。だが彼らは、失敗から脱出する努力を放棄しなかった。」と言う言葉に、削った赤鉛筆で傍線を引いたのでした。
あ~、確かに他の人にも自分にも勝手な幻想を抱いて失敗して来たな。失敗から脱出する人間的努力こそが大切なんだ。それは、そんなに簡単に分かる事じゃない。だから意味と価値がある。
視点が広がる内容でございます。
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2025/05/18 13:40
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習慣の力
昨晩のつくば市内の金曜渋滞は、なかなかのものでした。
夕方第1便は、工場の門を出るのもなかなか出られない状態。いつも混雑する国道408号線の「東雲」前「魔の交差点」も手前から大変な渋滞でした。それでも、第2便発車時間に10分遅れで済ませられたのは、かなり慣れて緩急自在な運転ができる様になったからだと思ったりします。何より状況に対して無用に焦らなくなりました。
焦れば、周りを見ないので危険が増すだけなんですね。ちょっと狭い裏通りも通るのですが、お母さんと一緒の幼児が手を振ってくれているのも見逃さず、笑顔で手を振り返しましたら、お母さんがにっこりとお辞儀してくれました。そんな一瞬に喜びながら、この仕事が出来て良かったと思いながら無事にラッシュを乗り越えた次第です。
私たちがしている行動の4割は、習慣の力で成り立っている。なので無意識にできるくらいの習慣にする事によって脳の働きに余裕ができて、臨機応変に対処する事ができる。そんな事が書いてある本です。そして、その習慣を身に付けて行くためには、きっかけと報酬が大切なんだとあります。
きっかけと言うのは、例えば朝起きたら布団をたたむ。ベッドなら直すになりましょうか。それだけで、一日のスタートが変わるきっかけになるとありました。
例えばバスの運転に入る前に、運転席の周りを拭くとか、道具一式を点検しながら整備し直すとか、そう言う事が、良い習慣付けのきっかけになる。
そして、その報酬と言うのは気持ちの良い一日や仕事になって返って来ると言う訳です。
心の持ち方と言うのは、ルーティン、つまり習慣化する行為によって導かれると言う事なんですね。
私が、この映画に惹かれるのは、実は「習慣の力」をさりげなく描いているところなんです。
役所広司さんふんする平山さんが、起きて最初にやる事が布団をたたむ事。歯を磨く事。植物に水をやる事。…仕事に出かける前から公園のトイレ清掃の仕事。樹木を見上げ写真を撮りながらの昼食休憩。それから、オフの行動も含めてルーティン化された生活を美しい映像で淡々と描いていると思います。私が特に印象に残っているのが、畳の掃き掃除の前に濡らした新聞紙を撒いてから掃くシーンでした。
あ~、母がそうやって掃いていた。ほこりを立てずに綺麗に掃く知恵でした。同時に部屋の空気が澄む効果があるのだと思います。
完璧な一日と言うのはルーティンから成り立っている。それが、この映画のもう一つのメッセージの様に思うのです。
バスの床は箒とモップで掃除しますが、窓やボディは私の場合、きつく絞った水雑巾で拭き上げるのを日課にしております。
そうするといつも思い出すのは、小学生低学年の頃木造校舎の長い廊下を、両手で水雑巾を押しがけした記憶なのです。
友だちとワーワー競争したりしてやった雑巾掛けの記憶が、よみがえるんです。その時の木の床の記憶と共に。
そうすると、私が木道を歩くのが好きだと言う原点がそこにあったのかなとも思います。
昭和の時代の変化はとても凄くて、例えば同じ昭和でも10才下の別れた妻のベースと全然違うと言う事も分かりました。
物事の解決の仕方やルーティンが、一つ一つ違うのです。
私は、何とか自前で解決しようとするのですが、「文明の利器」を買って解決しようとします。
まあ、今の人なら当たり前の事かも知れません。なので批判している訳ではありません。良いものへの目利きは、凄いですし、私には到底及ばないと思っています。
消費社会が今の社会の前提なのですから。
ただ、自分の手で拭く感触や、拭き上げて綺麗になり空気まで澄んで気持ちが落ち着くと言う報酬があり、その時の情景がものや人に対する愛着を生むと言う確かさは、生まれにくいのかも知れない。
そんな事を感じます。
たくさん買うのだけれども、食べものにも、ものにも、人にもそれほど愛着が持てずに捨てる。
自分の手や足で触れてつかんだ感触と共に確かな記憶があり、その記憶がその人の土台になる。ルーティンと言う行為を通して、確かな心の土台を作り続ける。それが習慣の力なのかも知れません。
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2025/05/17 11:09
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