辻川慎一つくば便り
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あれは何だったのだろう?
国鉄分割民営化の嵐の時代。日本最強と言われていた労働組合には、「党派のるつぼ」と言われるほど色んな政治党派があり、それぞれが自分たちの正当性を主張して覇を競っておりました。
私もその中の「極左」と言われた党派の一人として、疑問もありましたが真っ直ぐに闘っておりました。
それぞれが影響を受けて正しいと思う党派を信じた。
高度経済成長があり、そのきしみがたくさんある中でも「信じる」事ができた幸せな時代であったのかも知れません。
人の関係も単純に熱かった。そこに生きられた様に思います。
(アマゾンで498円のアルコール検知器を買いました。何しろパンでも赤がでて真っ青になると言うシャレにもならない経験を致しましたので。安いのでどうかな?って心配もありましたが、ちゃんと動作しております。)
国鉄分割民営化を進める側の実務者と、徹底して反対した側の私だから同じ思いになったのだと思います。
「あれは一体何だったのか?」
そして、今の時代に会社も労働組合も、例えリスクがあろうと引き受ける人材の不在。と言うか育てられない社会の現状。
99%の中小企業労働者よりも圧倒的に恵まれている大会社の労働組合の責任者として奮闘して来た友人が「私が言うのはおかしいけれど、大企業労働者に本当に労働組合が必要なんだろうか?と思いはじめている。」とちらっと本音をこぼします。
国鉄改革の前面に立って来た人、大きな労働組合で難しい舵取りをされて来た人、そして小さな労働組合で激しく闘い抜いた私。
それが、同じ思いに行き着いている。
「あれは何だったのか?」そして今に通じる何の意味があったのか?
40年前夢中になって読んだ記憶がある「青春の門」の作者五木寛之さんの古本を手にして読みました。
沁みる様に内容が心に入って来ました。
五木寛之さんは、両親と共に日本の植民地だった朝鮮の平壌(今の北朝鮮の首都)で敗戦を迎え、その惨状の中で母親を失っております。
その時に、政府がラジオから伝える「大丈夫」と言う話を疑わずにいた人たちが残され、目ざとい人や上層部の人たちはさっさと逃げてしまった。
残された人たちは、自分たちの組織を作り、その代表を選んでいきなり攻めてきたソ連軍(今のロシア)と交渉する術も持ち合わせていなかった。
と述べております。
あ~そう言う事だったのか!
確かに国鉄分割民営化の時も、日頃偉そうな事を言っていた政治党派の労働組合幹部から逃げて行ったのは同じだった。
上手い事を言いながら、自分たちは逃げる、あるいは上手く立ち回る。そして置いて行かれるのは、そんな人たちを信じて来た現場の労働者たちだった。
党派も幹部も上手い事を言いながら、本音は何とか助かりたい。犠牲は止むを得ない。
それが見えたから、自分たち自身の組織―新しい労働組合を作って闘って交渉する事にした。
五木寛之さんが語っている事の中から「俺たちは、党派を選んだのではなく辻川さんを選んだのだ。」と言う意味が、ようやく分かったのです。いつしか組織と人の関係が逆転して、組織のための人になる。
いつの時代も、どこの国でも変わらない事がある。
大変な困難であればあるほど、人には組織が必要になり、それをまとめ代表する人格があって切り抜ける事ができる。
逆に言えば大した困難を感じ無ければ、組織も人も必要無いと言う事になる訳です。
それぞれが、それぞれで何とかなると思われる時代と言うのは本気で組織や人を求めないと言う事になります。
そのまま行ければと言う限定付きです。戦争の時も、敗戦の時も、自分自身の判断や責任を任せていた「純朴」な人たちが一番悲惨な目に遭った。東日本大震災と原発事故では?そして、コロナ禍ではどうでしょう?
その本質的なところの教訓こそ、次の世代に伝えて行く大切な核心の様に思うのです。
私の方は、自分自身の始末を組織頼み、人頼みでなく自分の責任でつけなければならない年になってしまいましたが。
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2025/02/16 12:31
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お願いします。
朝は氷点下。昼は風もゆるやかで春を感じる様な穏やかな土曜日の休みになりました。
友人と一緒にジャグジーに当たり、炭酸泉でじっくりと温まって緩んで来たところです。
昨日は、金曜渋滞で運転席に座りっぱなし、折り返し時間にトイレに行こうとしましたらフラフラ致しました。
自律神経と足腰の強張りの両方を感じましたので、手すりにつかまりながらでした。若い振りをせずしっかり高齢運転士だとの自覚、大事な様に思います。
実は夜乗務の前に、アルコール検査に引っかかってしまいました。お酒はもちろん飲んでいないので「え~っ、何で!」と驚きましたが「出てしまったら乗務はさせられない。」と当然にも言われました。
う〜、まさか点呼前に食べた小腹を満たすためのパンですか?まさかパンにアルコールが?
仕方が無いのでうがいをして、再挑戦。結果はOKでございました。
食べたのは、コストコで買ったこちらのパンでございます。
後でネットで調べて見ましたら「パンには、パン酵母が糖質を分解する過程で発生する微量のアルコールが含まれています。そのため、パンを食べた直後にアルコール検知器で測定すると、アルコールが検出されることがあります。」とあるではありませんか。
いやどうも。リポDみたいな飲料はヤバいと聞いた事がありますが、パンも出るとは知りませんでした。
何しろ前科がある身、肝を冷やした次第でございます。「まさか昼間からは無いでしょう。しかし、パンとは。」と若社長が笑っておりました。
もしかして、ベテランの運転士さんたちには常識の事なんでしょうか?私の方は、珍事ばかり起こしている様です。
運転の技術はイマイチながら、朝も夜も乗って頂く人一人一人に「おはようございます。」「ありがとうございます。」「お疲れ様でした。」「お気をつけて。」と一人一人のお顔と目を見ながら、笑顔であいさつを欠かさずする様にしております。
笑顔無しで見ていると不気味ですから、笑顔は大事だと思います。
片手間にでなく一人一人。黙って乗る人、決して目を合わせない人、イライラするのか乱暴に乗って来る人。様々です。でも負けません。
と言うか、関心を示し、興味をもって心からあいさつをする事は、人への無関心社会との私自身の闘いでもあると思っております。
そして、一人一人を見ながら関心を持ってちゃんとあいさつをしていますと、だんだんと変わって来るのです。
最近では、乗車する時に私に向かって「お願いします。」と言ってくれる人が増えて来ました。降車する時は「ありがとうございました。」と言ってくれます。
「お願いします。」って、凄くないですか?
良くは知りませんが、世界の中でバスに乗る時に「お願いします。」と言って乗る人はいるのでしょうか?
「安全に、無事に、安心な運転をお願いします。」って事になるのでしょうけど、私はそう言う事だけでなく例え短い時間でも命を預かる訳ですので「お願いします。」に込められた意味は深いと思うのです。
「バスに乗る間、あなたに私を預けますのでお願いします。」そんな風に私は受けとめます。
何だか私が、JRの労働組合の委員長になった時と同じ身の引き締まり方を感じます。「あなたを信じて、私たちの命運を託します。」その時と同じ感覚がするのです。
大げさでしょうか?
バスが事故に遭えばケガをしたり、命の危険もあります。そこから守るあなたを信頼するのでお願いします。そこに本質的関係があると少なくとも私は思います。
つまり「あなたを運転士として信頼しますからお願いします」と言う言葉になる。
本当は「お願いします。」って軽い言葉ではないのですよね。信頼が無ければお願いなんかできないのですから。
どうせ俺なんか誰も見向きもしないし、関心なんか持たれてない。友だちはネットの中だけ。(?)自殺や孤独死が引きも切らさない時代に、私はあなたに関心があるし、興味がある。できたら話しも聞かせて欲しい。
そんな心を込めてあいさつをしていたら、ちょっと時間はかかりますがきっと通じる。それを実感する日々です。
接客と言うのは、金儲けへのへつらいではない。人と人の本来の社会で関係と喜びを取り戻すものだから大切なんだと思います。
それを「業務専念義務違反」なんて言う会社があるとすれば、幸せなんか運べませんね。本質的には反社会的でしか無いので、存続できなくなると私は思います。
いつもちょっと難しいオチになってすみません。
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2025/02/15 15:49
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確かなものはどこにある?
無常(常に変わる)の世界と言われますが、毎日バスを運転していますとやはり同じ日は無いと感じます。
昨晩も、3重衝突事故を見ながらの運転でした。
夜の帰宅ラッシュで交差点左折時には、横断歩道を渡る歩行者と自転車には特に気をつけているのですが、横断歩道の信号が赤になり、大丈夫かと思いきや自転車が減速する事なく突っ込んで来てドキッとしました。
信号無視をするのは、車ばかりではありません。歩行者も、自転車に乗る人も守らない事があります。
でも、当たったら責任が発生するだけでなく大変な事になりますので大丈夫と言う事がありません。
なので、交差点を曲がる前に、人と自転車が無い事を確認して、最大限徐行しながら左折するのがバス運転士なんですね。
それでも減速する事なく突っ込んで来た自転車がありました。
念の為に調べると、自転車は歩道を通る場合は歩行者用信号に従い、車道脇を走る場合には車の信号に従うと言う事になっていました。
何だか微妙ですが、車道脇の自転車は車と同じ信号に従うので歩道が赤でも関係なく来ると言う事です。
つまり自転車は歩道が赤信号だと渡らないと言う前提だと巻き込み事故になりやすいし、実際に事故が多い訳です。
当たり前の様に思っていた前提が違う事がある。
命は大切、安全第一と言う思いだけでは通用しない。法律(ルール)を、再確認しながらでないとぶつかるのが人の社会共通の事かなと思います。
(山林におき捨てられていた切り株の断片を拾って、悪戦苦闘しながら椅子に致しました。何が大変だったかと言いますと安定させる事。下の面がデコボコなので脚の長さを同じにしても、ダメな訳です。ノコギリで切りながら脚の長さを微妙に長さを調整するのですが、中々上手く安定しない。ようやく座れる様になりました。なかなか存在感のある愛用椅子になりました。)
ルールはお互いのため、ぶつからないためにある。意思の自由と言うのはルールを無視する中には成立しない。
なので、問題があるルールや法律は、ちゃんと問題にして変えて行かなければならない。民主主義の根幹なんですね。
変えようとする者が、民主的でなければ独裁と言う事になるので結局支持されなくなる。
民主主義ってめんどくさい訳です。
事ある事に法律・ルールが増えて行くので、何だかがんじがらめになって「自由」なんか無くなって行く感じもします。
不揃いな面の4本の脚を揃えるのだって大変なんですものね。
増して人はみんな違うのですから、合わせると言うのは至難の技なんだと思います。
でも、考え方やルールの解釈、それぞれの都合や事情が違っても、人間には合わせられるものがある。
それが、心なんだと思います。
この心がまた厄介で、相手がこうだろうと期待しても期待外れになる訳です。
うーん、そうすると勝手に解釈されない様に、やはりルールでがんじがらめになるしかないのか?
無常の世界に確たるものは無いのでしょうか?でも国連を作っても世界は縛れない。ルールでも利害が対立するのは、国内でも国家間でも同じなんですね。
そうしますと、確たるものって相手や他国にあるのではなく、結局自分の思いや心に帰って来る様に思います。
確たる思いや心が自分の中にあるのか?
それ以下のところに自分自身に取っての確実なものは無いのではないか?
不確実性の時代に入り、心の時代と言われて久しいのですが、以前として金と経済成長の中にしか未来が無いと追わされている感じがします。
自殺者や心の病が増え続け、殺人や傷害事件も無くなりません。
自分の心、自分の身体によ〜く耳を傾けて見る。
私も出来て来なかった事ですが、他者がどうのと言う前に大切な事の様に思います。
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2025/02/14 14:07
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微笑み返し
朝の乗務が終わり、窓も水拭き、乾いたタオルで乾拭きして「終わったー!」と思いましたら南風の強風が吹き出し、畑の土が舞い上がる。台無しでございました。
セラビィ…これが人生さでございます。
前が見えないくらい凄い舞い上がり方です。青空が土色に見えました。
今朝の発車前に、以前特別支援学校のスクールバスを運転していた時にお世話になった介助人さんにあいさつしました。
「奥さん元気?」と聞くので「元気ですが、ぶつかる事が多いですね。」と言いましたら「ぶつかれる人がいるだけ幸せだよ。」と笑う。旦那さんを亡くされた別の介助人さんが「生きているからできる事なんですよ。」と笑いながら話しました。
短いやり取りですが、色んな人生を背負って生きて来られた人の実感がこもった言葉が胸に残りました。
生きているからだよ。死んでしまったらケンカも何もできない。だから生きているうちに大切にしないとね。
そんな実感のこもったメッセージを受け取った様に思いました。
(春一番が掃除したてのサッシの窓に♫で始まるキャンディーズの歌を思い出しました。1978年私が国鉄で働き出した頃のヒット曲です。)
最近私は、キリスト教などの一神教と東洋の仏教、特に日本の仏教の教えが根本から違う事。そしてその影響の深さをとても感じております。
一神教だと、人間の外にいる神様に救いを求めるのに対して、仏教は人間自身の中に仏(ほとけ・神様)があり、仏の道を歩む事が極楽への道なんだと言う考え方なんですね。つまり、生き方についての教えと言う事です。
ブッダの教えで大切な事が3つあります。「殺すことなかれ。盗むことなかれ。(酒を)飲む事なかれ。」
何か戒律みたいな捉え方でなく、命あるもの、全てのもの、そして自分の身体と心を大切にしなさいって事。つまりその様にして生きないと、せっかく生を受けたのにとてももったいないんだよ。
そう教えているのだと思います。
せっかく奇跡の様に出会っているのに、もったいない事ばがりして来なかったのか?
もちろん、そんなに上手くも行かないし、良い事なんか無い感じがします。
だからこそ、大切にしないともったいない。
そう考えるともったいない事だらけに思えます。
たくさん生産して、たくさん捨てて、人もまたたくさん捨ててしまって来なかったかな?
ブッダ自身は、伝道し歩き続けて行き倒れになって死んだそうです。そして仏になった。
行き倒れや孤独死がいけない訳ではなく、その人が生きた事を大切にできない事がもったいなく、残念な現実の様に思います。
誰も、最後は一人でこの世を去らなければならない。そこんとこは平等なんですね。
色んな事はある。でも、その人その人の世界や足跡を尊重して大切にできたなら、それは決して不幸な死ではない。
何か大切な事を置き去りにして、生きている事や死を粗末にしてはいないのか?
良く、深く考え無ければならない時代が来ている様に思います。
まあ、私がそんな年を迎えたと言う事かも知れませんが、高齢化社会だからこそ大切な事を取り戻すチャンスにも思えます。
アン・ドゥ・トロワ♫
https://youtu.be/XDBUa-man9k?si=vnLyZ395KQhb1nl6
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2025/02/13 14:13
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マイナス8℃にスノームーン
近隣の梅が咲きだし「春一番が吹くかも」と言う日の今朝の車庫は、マイナス5℃。「バスの中は、マイナス8℃になってたよ。めちゃくちゃ寒い。」と言う同僚と事務所のストーブで指を温め合いました。
大きなやかんの蓋をあけて「お手をどうぞ」と言うオチャメな同僚もいて、「あー、そう言えば昔学校で牛乳瓶を入れて温めたね。」「そうそう、昭和な思いでですね。」と話していると、オチャメさんが「俺はテトラパックだからそんなに古くないよ。」と威張る。「ちょっと新しい振りをしても、今の子どもたちには分かりませんよね。」と私。
寒い中でも、みんなで笑い合っての発車でございました。
そんなひと時がとても楽しく感じます。
今朝は2月の満月でございました。
色んな光が周りにあると、全然焦点が合いませんが、自分の影だけはくっきり写りました。超足長おじさんです。
2月の満月は「スノームーン」寒い雪の中に凛として現れるので、自律を象徴する様です。
寒さにもびくともしない姿に、他者からの支配や制約を受けずに、自らの価値観や理念に基づいて判断・行動する自律を見る。
そして、満月は太陽の光を真正面から受けた姿を見ますので、真正面から対象を見る事で自分の姿が見える。客観視できるのだと言う事も示していると言われています。
相手や対象を真正面から見ないと自分も見えない。つまり、自律できないのでフラフラしていると言う訳です。
(こんな風に撮れたら良いのですが。)
自律神経失調気味で、突然フラっとする私にも学びの満月でございます。周りの人や物事を、自分の思い込みや先入観から見るのでなく、真正面から見れた時に自分が見えて来ると言うのは、その通りだと思います。
自分からは、自分は見えない。相手をちゃんと見えた時に自分がくっきり見えて来る。
先日、80才を越えたJRの元本社幹部の方が、歩くのが不自由になったのにわざわざ会いに来てくれました。
自分もフラっとしてしまう事に、しっかり気をつけながら、その有り難い先輩を目一杯気遣う私がおりました。
67才で年だなんて、そんな先輩の前で言ってられないのでございます。
無事に過ごして頂き、失礼が無いように気をつけて、無事に見送る。
有り難い先輩をしっかり見ながら、お話しを受けとめながら、何より見えて来たのは自分自身の存在と歩みでございました。
ボヤけていた事がはっきり見えて来たのです。
つまり、私に取ってのスノームーンだった訳です。
厳しく難しい時代に、立場は違えど真正面から向き合って来た。だから分かり合えるだけでなく、会って話す事ではっきりと見える事がある。
出会いに偶然は無いとも言います。
諦めずにその生き方を続けなさい。
もっとはっきりと、もっとしっかりと歩み続けなさい。
そんな大切なメッセージを直接頂いた様に感じています。
夜明け前が一番寒い様に、春の訪れをこの寒さが知らせているのだと思います。
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2025/02/12 14:01
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