辻川慎一つくば便り
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人は、捨てられたものにでも命を吹こめる。
今日は、雨のスタートになりましたが小学校の送迎バスです。やっぱり子供たちを乗せて走るのは、特別に楽しい私がおります。
青空でないと新緑の鮮やかさは今ひとつなんですが、畑のじゃがいもの花が満開でした。色んな花が次々と咲いて、田舎道の方が変化に富んでいると私は感じます。街場を走るよりは好きな私です。
昨日は、枯れてしまったドウダンツツジを伐採した枝の始末をしながら、実は気に入った枝を探しました。
気に入った枝と、先日磯崎海岸で拾って来た流木と石でオブジェを作って見ました。
流木に石を置いてみながら、何か足りないな〜なんて考えておりました。ちょうど手頃な大きさと形の枝を見つけたので組み合わせて見た訳です。
白い流木にはオイルステインを塗り、枝と石には透明ニスを塗って見ました。石も白っぽい石だったのですが、ニスを塗ると隠れていた赤味の色が鮮やかに出て来ました。
流木は、使われていた杉の板が捨てられて海の水に洗われ岩にぶつかりながら磯に打ち上げらたもの。石は、火山の噴火灰が蓄積して出来た凝灰岩だと思います。気泡が抜けた穴がたくさん空いているのが特徴なんですね。磯のあちこちにありました。その中から気に入った形の石を拾って来ました。
それぞれに私の知らない長い歴史があるのです。出会って拾わなければ、それまでの事。
庭の木も、私が植えなければ別の運命があったのですが、植えたと言う時点から私と運命を共にする事になったのですね。
家を売って、別れた妻の転居費用を捻出しようと一旦は不動産屋さんに見積もりをお願いしたのですが、古い家に価値がなく買値の半額と言う事。しかもせっかく植えて育って来た木たちも切られるしかない。
そう考えると家や木々たちが、だんだん可愛そうに思えて来ました。
私が買った時点、植えた時点から、運命が私に託されていたのだと気付きました。
同時に、私が死ねばいずれ壊され、切られる運命にある事も見えるのです。
そうしますと、やはり生きている限りは出来る限りの手入れをして大切にしてやる事が、生かすと言う事なのだと見えても来たのでございます。
それが、売れるとか売れないとかの資産価値の問題ではなく、共に生きると言う本質的意味なのではないか?
そんな風に思えて来ました。
筑西市で仕事の合間に野道を散歩して、初めて出会った「ナンキンハゼ」の木です。葉の形が可愛いと思い、近くに生えていた苗木を採取して家の入り口に移植しました。
こちらは移植したばかりの頃の写真です。
それが今ではとても立派な大きさに成長して、夏の強い日差しを遮ってくれる様になりました。
家の中が木漏れ日状態になります。蛾の幼虫が付くのが困りますが、有難い存在です。剪定して来ましたので枝ぶりもなかなか良い感じがします。
そうです。私の時間をちゃんとかけた分以上に、植物もちゃんと応えてくれる。それが分かりました。
つまり、私がかけた時間が、無駄な時間では無かった事を植物たちが教えてくれているのです。
今では、こんなに立派な幹になっております。しかも、木肌が綺麗です。
たぶん、私に残された時間にだんだんと限りが見えて来たのだと思います。
だからこそ、人にもものにも自分が納得する様にちゃんと接したいし、ちゃんと会っておきたい、語りかけて来るものを感じながら聞いておきたい。そう言う欲求が湧いている様に思うのです。
時間も空間も、目一杯満たそうとすると心は貧しくなる。ゴミ屋敷にはしませんが、捨てれば良いと言うものでもないと思います。
買って済ませる。買って心を満たす様な事はやめる。金銭的価値にとらわれず、自分自身の心の価値しか、自分に残るものなんて無いのだと思います。
なので、会いたい人にもちゃんと時間をかけなければなりません。
暇だからでなく、会っておきたい。会って時間と手間をかける。そうする事で、人の心も育つのだと思います。すると、もっと豊かなお返しが来る。
今日は、研修指導した運転士についての感想を初めて上司から聞かれました。「ベテラン運転士から丁寧な特訓を受けて良くなったと思います。精神的に弱いみたいなので、落ち着いて運転すれば大丈夫です。」そうお答えしましたら「それなら、明日辻川さんとの研修を最後にひとり立ちさせます。」との事でした。責任重大な事ではありますが、腕の良くない私などの意見を聞いて判断して下さる事に人として、運転士として信頼して下さっている事に有り難く思った瞬間でございました。
信頼は、かけた時間と共にお互いを育て良い環境を作り出す。
そんな事を思いました。
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2025/05/12 11:56
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心と動作の優雅さを目指して
今日は、とてもさわやかなお天気の日曜日になりました。
午前中に懸案事項をやりました。枯れてしまった生垣のドウダンツツジを伐採し積み上げたままだった大量の枝の始末をして、さらに家の中の植物の土の入れ替えを致しました。
うんざりするくらいの量の枝をなるべく細かくさらに切り、ゴミ袋にいれる。ゴミ袋に入れないと持って行ってはもらえないのでございます。なので観念して、入れて行くのですが枝が抵抗してなかなか入らない。袋が破れる。なのでさらに細かく切っていれる。そんな作業をこつこつとやりました。
ゴミ袋6枚分ございました。生きていたものを処分するって、やっぱり大変な事だよな〜と実感しながらでした。
(別れた妻が好きな植物ばかり植えて来たのですが、何だか今年は良く咲きます。別れた事を祝福しているみたいな感じさえ致します。「ハゴロモジャスミン」の花も咲き出して、良い香りを放っております。)
土の入れ替えの方は、毎年一回やって来ましたのでずいぶんと手際が良くなりました。その手間で、1年枯れずにいて楽しませてくれます。
別れた妻の誕生日にプレゼントした「デンドロビウム」にも、花が咲きました。
やはり、こちらに来て彼女が気に入ったと言うので植えた「福来ミカン」にも今までに無いくらいの花が咲いて来ました。近寄るととても良い香りが致します。
植物が次々と花を咲かせて来るのは、当たり前と言えば当たり前なんですが、どうして今なの〜なんて思います。私が家を売ってしまえば、みんなそれまででしたので、売らないと言う決断を喜んでくれているのかも知れません。
植物にも心があるのだと思います。感じ様としなければ分からないのは、人の心と同じ様に思います。
別れた妻が東京にいた時に、オリンピックと言うホームセンターで私が買った「幸福の木」8年近くなって大きく育ちました。育ち過ぎて土の入れ替えが大変なんですが、絡んだ根をほぐしながら入れ替えました。
するとね。葉がつやつやして元気になるのが分かります。喜んでいるのが分かるのです。
人間も同じです。身体と心の状態がちゃんと顔や動作に出るのです。元気かどうかは、良く見れば分かります。
昨日私が研修指導した後輩運転士さんを私はじっと見ながら、座席で彼の運転を感じながら、彼の心の不安定さも感じました。
ちょっとの不安があると途端に運転が雑になってしまいます。しかし、ずいぶんと良い状態の時が出来て来ましたので「そうそう、それで良いと思います。いつもその様に運転して下さい。」と安定する様にアドバイスさせて頂きました。
次に一緒に乗る人が大ベテランの運転士さんで、いよいよ「見極め」になるのですが「厳しい人なので緊張します。」と言うので「私も緊張して失敗して来ましたので、余計な事は考えずに心をゆったりと構えて自分の運転に集中して下さい。慌てていない時の運転は、大丈夫なんですから。」とそんなお話しをさせて頂きました。
すると、終わってお別れする時のお顔は明るいのですね。
プロの運転士さんと言うのは、動作にも余裕があります。ゆったりとしながらも、良く見ていて機敏でしっかりした動作もできます。つまり、美しいくらいの感じがあります。
私はまだまだ修行が足りませんが、経験の浅い人はガチャガチャしていて余裕がなく見苦しい上に、乗り心地も良くありません。
それは、心の置きどころの反映であり、心が顔にも運転にも正直に表れるのだと私は思っております。
人の命を乗せて、人を運んでいるのだよって、自分の波立つ心を感じる時は自分に言い聞かせます。だから、他の人の心の状態も感じられるのだと思います。
じっと見て、感じ様とすると感じられるのは、植物も動物も、人間も同じだと思います。感じ様としない人や自分の都合や事情にとらわれている人には見えない。
それが、見えなくても誰しもにある心なのだと思います。心が元気になると、身体も動作も変わって来るのですね。
あ~、思い出しました。優雅な動作と言うのは、二つの事をいっぺんにやろうとしない事にあるってJALの客室乗務員さんの言葉でした。相手や周りを良く見て、一つ一つの事を丁寧にできる事が、優雅な動作と言う訳です。一つの動作にも心を込めてやって行く中で身について行くのが優雅な動作。
やはり、日々の習慣の積み重ねなのだと思います。
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2025/05/11 13:59
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シェリー
いつも満杯の会社の駐車場には、数台の車しか停まっておりません。
連休明けの土曜日、工場が操業するため私は出勤でございます。しかも、研修中の運転士さんの指導添乗でございます。
大卒で証券会社に就職し6年で倒産。その後は出身地茨城に戻り自動車関連の営業をされて来たとの事です。一度「見習い研修」を担当して、これでは乗客に不安がられてしまうと感じる危うい運転でしたが、今日は「特訓」の成果があった様で見違えるくらい良くなっておりました。私も教えて頂いた運転士さんからの「特訓」と聞いて、やはり教える人の技量があると感心した次第です。
安心して見ていられる様になりましたので、回送の時などにお話しも聞きました。
30年以上前、20代で一緒に「バカ」をやっていた同僚から、今でも毎日電話が来ると言います。関西の証券会社でしたので、直接会う機会はなかなか無いとの事ですので「毎日ですか?珍しい関係ですね?どんな話しをされるのですか?」と聞きましたら「下らない下ネタなんで、妻があきれるのでいないところで話すんですよ。」と言います。ますます、珍しく面白い関係だと思います。
とことん一緒にバカな事をやりながら、一緒に働いた一生忘れない友情なんだと思います。
何故それが分かるかと言えば、私と仲間たちとの友情も根っこが同じだからです。ただ私の場合は、JRを離れる60近くまで続いたと言う点が特別だったのかも知れません。
みなさんのリーダーではありましたので真剣に闘いながら、飲んでは一緒にバカをやって来たからこその忘れられない友情なんだと思います。
(去年頂いた小さなツツジの苗に花が咲きました。薄いピンクに濃いピンクが混ざった綺麗な花でした。)
格好をつけて、自分をさらけ出せない人は信用されません。でも、さらけ出しても大丈夫って言う人もなかなかいないのも現実です。見間違うと痛い目にも遭います。
どうも私には女性を見る目が無い様で、自分をさらけ出して手痛い失敗ばかりして来た様です。きっと女性の方が、強かでないと生きて行けない社会的背景がある様に思ったりします。
たくさんの思い出を残したつもりでも、相手が嫌になると思い出も嫌な記憶として徹底的に捨てる。そんな感じも致します。
ところが私の方は、嫌だろうと何だろうと思い出は思い出で忘れられないのです。
私が関わった人は、亡くなられた人たちを含めて全て懐かしく大切な思い出であり、記憶であり続けております。その人たちとの関わりや思い出の記憶が、今の私を作っているのですから、それを否定するのは私自身を否定する様なものなんですね。
1985年、国鉄分割民営化で約30万人の国鉄職員が揺れ動き、労働組合の路線と方針をめぐって私が激しく闘っていた時、自殺した息子が誕生しました。
その時に若者たちの熱烈な支持を受けていたシンガーソングライターに、尾崎豊さんがおりました。
数々の忘れがたい曲がありますが、私の仲間にもカラオケで歌っていた人がいたのを記憶しております。
「卒業」と言う歌では「思い出以外に一体何がのこるのだろうか?」「この支配からの卒業」と言う歌詞が印象的でした。
それから40年、尾崎さんは26才で亡くなり、息子は28才で亡くなりました。私は、それでも闘い続け、愛し続けて一体何が残ったと言うのか?って言うとやっぱり思い出なんだと思います。
私の思い出の中に、息子や仲間たちや私に関わった全ての人が生きて存在したと言う消せない思い出があるのです。
(こちらでは、清廉な睡蓮もいよいよこれからです。)
そう考えて見ますと、人の存在と言うのは消せずに他の人の中に溶け込んで、名も知らぬ人の中にもつながっていくと言う事になります。
決して自分だけで終わりだとか、死んだら終わりなんて言うちゃちな関係が人類の歴史では無いと思えるのです。
所詮そんなものだって、今の限定された社会や時代の中で思っているだけじゃないか?そんな風に思います。
どうして私のブログを「身体の一部です。」とか言ってくれるのか?そして、会いたいと言う人が居てくれるのか?
同僚たちが色んな身の上話をしてくれるのか?
何だかようやく分かって来た感じがしています。私がみなさんの思い出を大事にして忘れないから、損得勘定でないその心を感じてくれるからなのかな?と思います。
だから、私と一緒の思い出と記憶になる風景と時間を過ごす事を求めてくれる様に思うのです。
光陰矢の如し、されど手元には弓が残る。私の弓とは、言葉であり文章なのかも知れないと思う様になりました。
尾崎豊さんに「シェリー」と言う歌があります。やはり幼子を残し若くして亡くなった知人の葬儀でずっと流されておりました。忘れえぬ曲です。
https://youtu.be/-0voHSpCeSY?si=pN2cuMjnJycEa2df
フランス語では、夫婦や恋人、親子間など、大切な存在に対して呼びかけるときに使われる「シェリー」という単語があるそうです。
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2025/05/10 15:33
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すみっコぐらし宣言
昨晩終点で乗客を降ろしてから、無事に回送に入る旨の電話を点呼に入れましたら「車庫での停車位置が変わりました。」との事でした。
商売繁盛でバスも増えておりますので、車庫のやりくりも大変なんですね。私のメインは、40人乗りの古い中型バスなので大型バスよりは融通が利きます。なので結構駐車場の中をあちこち動きます。
と言う訳で、またもや「すみっコぐらし」になりました。
でも、良いんですよ。朝の点検をして運転日報に書き入れておりますと、ウグイスの鳴き声が聞こえて来ました。
う〜ん。新緑があり、ウグイスの鳴き声までするなんて最高〜と思うと、今度はキジの鳴き声まで聞こえます。まあ、残念ながらキジの方は姿とは違いあんまり美しい鳴き声とは思えませんが、気分良く発車致しました。
真ん中だの、先頭だのと散々やりましたが、すみっコの方が安らぎます。
帰庫しましたら、明日土曜日の乗務に「研修指導」の指示がありました。以前も一度担当した事があり、直ぐに謝るのですが、指摘した事について全然改めない人なので取締役の上司に「何を教えれば良いのでしょう?」と聞いて見ました。
「辻川さんも以前言った様に、半クラッチの扱いがだめなんです。何とか一本立ちできる様に指導して欲しい。」と言われました。そして「辻川さんは優しいからな〜。他の人なら強くダメ出しするのだけど。強く言って欲しいと言う事ではありませんが。」とそんなお話しでした。
人によっては、私を酷い人間だと恨んでいますので「優しいだけではダメなのかな〜」なんて考えてしまいました。
私自身は、優しいだけと思ってはいないのですが、人の感じ方って色々だなって思います。この人には何を言ってもやっても許されるなんて言う半端な優しさでは無いと思っていますので。
(「すみっコぐらし」の脇には用水路が流れ、その上に「アカメガシワ」がせり出しています。赤い葉が大きくなるととても鮮やかで、緑の葉とのコントラストが美しく感じます。)
ところで、とりあえず謝ってしまい何も変えようとしない後輩同僚さんは大卒の人なんですね。頭は下げるのですが、きっと心からでな無いのかなと思ってしまいます。自分の方が大卒で上だって言う誤ったプライドが邪魔しているんじゃないか?なんて思ったりします。だから素直に人の指摘を受け入れられないのではないのかな?
まあ、勝手な推測ですが、他の大卒の人も頭で考える自分の理屈が先に立って目の前の人から学ぼうとしない。だからいつまで経っても運転士としてひとり立ちできない人がおります。
(用水路の土手に咲いていた雑草の小さな花です。「アメリカフウロ」と言う帰化植物との事です。葉が赤く鮮やかに紅葉するのを見た事があります。)
私も結構頭から入ってしまう傾向があるので、実践ではなかなか苦労して来ました。
電車の運転士の時も、乗務カバンに入れていたのはマルクスなどの本で、時間さえあればながめて、なるほど〜なんて赤線を引いては読み返しておりました。
運転が上手くなるはずありませんね。
でも仕事に携わりながら身に付けて来た「マルクス主義」でしたので、労働をした事の無い学生出身の方々が語るマルクス主義とは、筋金の入り方が違っていたと思います。
知る人は知ってますが、知らない人は全然知らない筋金入りのマルクス主義者でございました。
そんな私に、高齢になってから次々と起こる夫婦と家族の破綻の「悲劇」。
しかし、良く周りを見ながら考え直して見ますと、私だけでは無いのですね。珍しくも何ともない現実な訳です。
瀬戸内寂聴さんが「夫婦制度の崩壊」みたいな事を言われておりましたが、夫婦だけではなく家族制度そのものが、根本から崩壊している現実があります。
どうして家族でなければならないの?家族である意味って何?一部幸せな人たちを除きますと、みんな分からなくなっていると感じます。
形は夫婦や家族であっても、高齢化で病気や介護の問題が発生すると問題の本質が露呈致します。
独居と孤独死、あるいは廃屋の山状態です。
(こちらは凛と咲く「山法師」です。)
マルクスの盟友エンゲルスさんは「家族は国家支配の最小単位である」と言われました。そうしますと家族制度の崩壊って、国家制度の土台崩壊につながっている事になります。
ロイヤルファミリー天皇家を国家の象徴にしても、土台の崩壊が激しく進んでいて手が打てない。
そんな現状なのかも知れません。
そうしますと、私に起きている問題と言うのも特別に私に起きている事ではなく、時代を反映した出来事なのだと言う事が見えて来ます。
なので悲嘆にくれている場合ではないと、筋金入り労働者出身の元マルクス主義者は思うのでございます。(本は処分しましたが。)
つまり激しく変わるこの時代のすみっコに私もいると言う訳なんですね。
逆に言いますと、「あなただけではありません。」と言う事になります。
今や高齢者階級と言う一つの階級がいる。そう言う自覚って大切かも知れません。失うものは心のみ。つながらないと人として終わってしまう命の限りの階級闘争の中にあるのかも知れませんね。学歴も職歴もクソも関係なく。
今日は、ほんわかネタでなくてすみませんでした。
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2025/05/09 14:39
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異邦人
朝の出庫前、屋外のトイレ待ちをしながら新緑と空の青、そして雲が素晴らしく気持ちが良いので両手を広げながら見ておりました。トイレから出てきた元競輪選手だった同僚が「何やってんの?UFO呼んでるの?」と言うので「深呼吸してたのですが、UFOが来てくれるのも良いですね〜。」なんて話しました。
5月の新緑の風景に、フジコ・ヘミングさんの「雨だれ」が合いますとブログに載せましたら、ずっと聴いてくれている読者の人もおります。
私が車でフジコ・ヘミングを流していると変えてしまう人がおりましたが、今は気にせずにゆっくりと聴けます。
「音楽性の違いで解散」みたいな感じです、と新人の若者が言った言葉が思い浮かびます。
(実家に行った帰りに、20年ぶりくらいに北浦に架かる「鹿行大橋」を見に寄って見ました。東日本大震災の時に、真ん中が消え落ちた記憶があります。)
嵐の様な時代を、仲間たちと一緒に駆け抜けて走り続け、かけがえの無い息子を亡くし、政治運動から離れて離婚。再出発のはずの再婚がまた破綻。
どうしたものやらと言う感じですが、諸行無常をそのまんま生きている感じかも知れません。
でも、それまでの「縛り」から解放されると不思議に、それを待っていたかの様に「会いたい」と言って下さる人が出てくるのです。
「あなたは何のためにブログを世界発信しているの?」なんて言われて来たのですが、別に世界発信が目的な訳ではありません。どうしようも無い様な私のブログを待っていてくれる人がいるから。それだけです。
ブログが上がらないと「どうしましたか?」「何かありましたか?」と心配しながら、心待ちにしてくれている人がいるから上げ続けて来ました。
(橋のたもとに「北浦荘」と言う温泉施設があります。以前は宿泊ができて、ここで今の会社の労働組合の中心の人たちと勉強会をやりました。もう大半の人がこの世を去りました。だからこそ、私には忘れられない思い出の場所になります。)
慌ただしく走り抜けずに、その時々の人との出会いをもっとしっかりと過ごせば良かったと後悔します。また会える。時間はいくらでもある。そんな風に思えた時代でもありました。しかし、二度とは無い貴重な時間だったのだと後から分かるのです。
それは今も同じです。今日と言う日は二度と来ない。今日会えたから、また会えるなんて保証なんて何もありません。
だから、会うとか会えると言う事を当たり前の時間にしてはならない。そんな風に思っています。心のこもったメッセージや手紙もたくさん頂いて来ましたが、例えば子供さんたちとの時間も二度と返らない時間でした。
だから、駆け足でなくじっくりと心を感じながら、自分の記憶に重ねて行く。それが自分を確かな自分たらしめているんだ。良く見たり、感じたりしていないと不安定な自分になってしまう様に思います。
確かな時間と言うのは、人やものとの自分の関わり方の中にあるものなのだと思う様になりました。
時々ながら欠かさず手紙を下さる人がおります。労働組合の情報等と一緒に必ず手書きのメッセージがあります。手書きと言うのは手間がかかります。その手間をかける時間の中に、相手への思いがあるのだと思います。今回は、短いメッセージでしたが気持ちが伝わりました。
誰しもに事情があり、忙しかったりします。だからこそ、会える時間が会う場所と共に大切な思い出と記憶になるのだと思います。手間をかける事が、確かな自分を作って行く。
安易な効率化が、人の存在を希薄化させて行く事に対する私と仲間たちとのレジスタンスの長い闘いの帰結でもある様に思います。
これから夕方から夜にかけての乗務です。急ぐために奪われる時間と心が錯綜するラッシュアワーの中で、奪われない心、揺るがない人としてのプロ精神を自分の中に作り上げていく大切な時間です。頑張ります。
https://youtu.be/5raK_iAFrn8?si=FsVkVo6oUwKx4FeP
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2025/05/08 14:36
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