辻川慎一つくば便り
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僕の胸でおやすみ
昨日は雪が降りました。幸いラッシュアワーには止みましたが、さらなる難敵が襲い掛かりました。
濡れた傘に、濡れた靴に、満員の人いきれ。しかし、車外は低気温。バスの窓という窓の曇りが凄いのです。わぁーグレーゾーンだなんて言ってられない。
除湿をかけると冷気がでるので、当然私も乗客も寒くなります。デフロスタを最大にして辛うじてフロントガラスは見えるのですが、運転席からの両サイドが見えないのです。添乗員がいれば拭いてもらえるのですが、バスは大きいので運転しながらだと左側を拭くの無理。そうすると左折の時に、人や自転車がいるのが見えないので、巻き込み事故の可能性が高くなります。左折前に確認はしますが、ダッシュして突っ込んで来る事がある。なのでめちゃゆっくり左折します。でも、見えないので恐怖を感じます。バス運転士なら分かってもらえる事ですが、雪が怖いのはスリップ事故だけでは無いのです。
(つくば市の積雪は1cmとの事でした。今日も寒いので雪化粧の筑波山が見えます。)
私の波乱な人生が止まりません。それでも仲間たちが「何があっても辻川さんへの信頼は変わりません。」と言ってくれます。
どうしてだろうと自分でも驚きます。もちろん仲間たちを守るために尋常でないくらい闘いましたが、どうもそれだけではないのではと考えたりします。
振り返り直しますと、そこまで言ってくれる仲間たちと言うのは、私に自分をさらけ出しながら一緒に生きて来た人たちだと思うのです。
みっともなく、バカみたいな自分。悩んでくよくよする自分。めちゃくちゃをやってしまう自分。そう言う自分を私にさらけ出してくれた。
そしてそれを受け入れて、非難なんかしない私がいた様に思います。何でも受け入れて聞いて、そんな事で騒がない私だから、かなり安心してさらけ出してくれていたなと思うのです。
まあ、仲間たちとの関係で言うとグレーゾーンどころかレッドゾーンだらけだった様に思います。
そんな事の積み重ねと言うか記憶があるから、私のレッドゾーンも引き受けてくれる。
そんな関係なのかなと思います。バカを一緒に出来ず、自分は優れているなんて勘違いしていた人たちは私の「地位」や「権威」が無くなったら離れて行ったと言う構造が見えて来ました。
自分をさらけ出す事自体、信頼が無いと出来ない事ですよね。裏切られたら、相応のリスクがあるのですから。
分かりやすいのが男女関係です。信頼して愛し合っていると思うから、全てを語り、丸裸で自分をさらけ出す事が出来ます。ですから相手を間違えるとえらい事になってしまうと言う例も五万とある訳です。
なので自分をさらけ出しても大丈夫な相手と言うのは、なかなか無いとても貴重な存在になるのだなと思います。
(紅梅に雪。梅も3月の雪も春を告げている様に思います。)
厳しい寒さの冬になるとみんなで春を待つ。花々が次々と咲く春も束の間に過ぎてしまいます。
楽しかった事も、輝いていた若きし時も、そして特別の存在だった人たちとも突然の別れが来る。
全てが一瞬の様に過ぎ去って行き、戻る事はありません。
日本人は、万葉集の古(いにしえ)から、輝く春を見つめながら悲しみを感じて来たと言います。それが続かない事を知っているからです。
人はいずれ全ての人やものと別れる時が来る。別れがあると知っているから、愛おしい。つまり、愛は惜しいから愛たり得る。悲しく惜しいと感じないところに愛すると言う感情は本当には感じられない。
永遠に成長できると言う傲慢な考え方には、愛しいと言う気持ちが生まれないのだと思います。それが資本主義だとか社会主義だとかの限界にも思えます。
嘆いたり、悲しんだり、落ち込んだり、泥だらけになって這いずり回ったり、本当はそれで良いのです。誰しもがいつも元気で明るく、不健康で暗いのは社会のためにならんからダメだなんて周りから責められる。それ自体がおかしいと昭和の半分で成長して来た私は思います。土台人や政府に言われる事でなく、それぞれの人の気持ちや意思が大切なのだと思います。
そう言う何でも当然だみたいな風潮が、適応できない自分を自分で諦めてしまう。惜しいと思いませんか?変わってるのではなく、みんな特別の存在なのですから。
そんな社会の中でダメだと思わされている自分をさらけ出して、それで良いんだよって受け入れてくれる人がいたら、きっと一生忘れませんよね。
私自身は無自覚でしたが、そんな変で特別な人たちにこそ守られて来たとしみじみ思うのです。
私が15才の頃から聞いて来た「かぐや姫」の「僕の胸でお休み」
「君の笑顔の向こうにある悲しみは〜」に始まり「春は訪れ そして去って行く 終わってしまう悲しみは 僕も知っている〜♪」男女間の事だけでなく、人の関係の姿に通じる歌の様に思って来ました。
僕の胸でおやすみ。
https://youtu.be/d_-OOYMuArI?si=sw6QQIwVUwCkRPXw
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2025/03/04 11:21
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グレーゾーンを渡る知恵
今日は、雪予報もあり冷たい雨が降っております。外で仕事をされている人、大変ですね。
朝の乗務でバスが汚れましたので、雨の中で洗車・拭き取りをしましたらやはり手が痺れて来ました。
それでも1時間程度の我慢。帰宅のバスを少しでも気持ち良くと思いながらの作業でした。
私の方は、ボーナスも昇級もありませんので勤務評価をあげるためではありません。自分の心と向き合いながらの作業になります。
しかし、納得できる仕上げにはほとんどなりません。やればきりがないくらいです。
どこまでやるか?いつまでもやっていると他の人たちの作業の邪魔になりますので、時間も限られます。
時間と状況を見ながらの作業になります。
(工場の送迎で1年ほど一緒に働いた年上の同僚に「野菜を採りに来るかい?」と電話を頂き、喜んで行って来ました。ダンボール二箱。食べきれないし痛むのももったいないので、職場のみなさんにお配りさせて頂きました。)
何か世の中全体は、きっちりと白か黒かに整理する方向に向いている感じがします。その方が分かりやすくて安全で、あまり考えなくても安心だと言う感じでしょうか?
ところで生身の人間社会はと言うと、白とも黒とも、良いとも悪いとも区分けが付かないグレーゾーンと言うのがあるんですね。
例えば、交差点です。赤信号は止まれ。止まらなければ信号無視。分かりやすいですね。ところが、交差点と言うのはみんな大きさも違い、歩行者用信号の点滅の長さも、青から黄色、赤になる時間も設定が違う。しかもラッシュアワーだと設定が変わるのです。
その中で赤になったから慌ててブレーキを踏むとバスの乗客が転倒する危険があります。なので赤に変わろうとも行く場合があるのです。
ラッシュアワーの右折の場合は特に、信号通りなんてやっていると、いつまでも曲がれないなんて言う事になるのです。
しかもバスだと後続の車も全然進めないって事になってしまいます。
なので赤信号に変わっても行く場合が多々あります。
それが出来ない運転士は、素人同然と言う事になります。
つまりグレーゾーンを渡れて一人前なんですね。全体を良く見て行ける行けないを瞬間瞬間に判断して行く訳です。
どんな状況にもグレーゾーンがある。
白黒つかないところにプロの出番がある。裁判官なんかもそうですよね。
白黒なんてのは、力が強い人に有利な分け方の様に思います。ルールを作る人たちに力があるのですから。
(100円、200円で読みたい本が手に入るブックオフ。私の強い味方でごさいます。難しそうですが、きっちりクリーンな社会の動きに対してグレーゾーンの人間社会における大事さを論じております。)
考えて見ますと、私などはとんでもなくグレーゾーンばかり渡って来ました。塀の上を歩いて、たまたま塀の中に入らなかっただけ。かなり破天荒な人生でした。
昔話でごさいます。ある夜、飲酒運転の取り締まりに止められました。
「ちょっと匂いますね。パトカーに乗って下さい。」と言うので乗りました。
「住所氏名生年月日を言って下さい。」と言うのでスラスラ答える。
「外に出て歩いて見て下さい。」と言うので真っ直ぐ歩く。
その間に質問もされる。「一緒に乗っている女性はどんな関係ですか?」
「おまわりさん、あんまり無粋な質問しないで下さいよ。内緒です。」なんて言いながら笑い合う。
「では思い切り息を吹いて下さい。」と言うので「大丈夫ですよ。まな板の鯉ですから、観念しています。」と笑い合う。
で吹いてアルコール検知器の数値を見てうなる。「う〜んグレーゾーンだな〜。一体どのぐらいのんだのですか?」と聞くので「生ビール一杯とお銚子3本ですね。」と答えました。そしたら「飲み過ぎです!私たちだってそんなに飲みません!」と言うので「おまわりさんは、飲んじゃ行けないでしょう?」とまたしても笑い合う。
「しょうがないなー。今回は注意処分のキップを切ります。」と言うので「罰金はいかほどですか?」と聞きましたら「ありません。」と言う。「え~っ、じゃあ車に乗って帰っても良いですか?」と言うと「だめに決まってるでしょう!」と叱られました。
飲酒運転で検挙されたのに、何だかお互いに笑いの絶えない楽しいひと時でした。
まあ、そんな事は本の可愛いエピソード。アンビリバボーなくらい無茶苦茶なグレーゾーンを歩んで来たのです。
そして、プロのバスドライバーになり飲酒運転は決してしませんが、毎日グレーゾーンと渡り合っているのでごさいます。
笑顔だけは、昔も今も変わらないのかも知れません。ひょっとして社会のグレーゾーンを渡る私の知恵なのかも知れません。
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2025/03/03 13:10
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今と自分を心から大切に。
週末金曜ラッシュ。覚悟はしておりましたが、地方都市つくば市とは言え中心部はなかなかの混雑でした。ドライバーだけでなく、歩行者も、自転車も信号点滅で走って来ますので油断ができません。約3時間、運転席に座りっぱなしで神経を集中しますので頭も身体も固まり、フラフラ致しました。
まあ、それでも何とか無事に終える事が出来た事にほっとしております。
(のどかな筑西市を大型バスで走っていた頃が懐かしくなります。)
工場の送迎バスの発車時間前に、スクールバスが戻って来ます。
あっと言う間に大型バスを乗りこなす新人さんもいれば、小型のマイクロバスの運転になかなか慣れずに格闘している新人さんもおります。
私も下手くそなので、気持ちが分かる様な気がします。なので「焦らないで。」「せっかくのチャレンジを諦めないで。」と声をかけ、気に掛けて来ました。
でも、なかなか通じない感じでした。
インフルエンザのワクチンを注射してから、しばらく調子が悪いと言うので「もうやらない方が良いよ。私は全然受けてないよ。それより良いものを食べて免疫力をつけた方が良いと思いますよ。」そしたら「受けなくても大丈夫なんですか?受けるのは当然みたいな感じでしたから。」と言うので「そう言う人も、だれもあなたの身体に責任は取ってくれませんよね。自分の感じや判断が大事だと思います。」そんな話しもした事がありました。
顔色が悪い時もありましたので「まだワクチン後遺症があるの?」と聞きましたら「安いレトルトカレーを食べたら腹の具合が悪くなった。」との事でした。「安いのには理由がありますから注意しないとね。なるべく良いものを食べて下さい。」
そんな会話をして来ました。
(もうすぐ菜の花の季節が来ますね。見て楽しみ、香りも楽しみ、食べて楽しめる大好きな花です。やはり筑西市にて撮りました。)
昨日は「今日は顔色が良いね!」と声をかけました。「時間が遅れるので、なかなか別のコースをやらせて貰えません。」と言うので「ぶつけたり、事故ったり、何より子どもたちにケガをさせない事が一番。大きなバスでもマイクロバスでも基本は同じです。その上で慣れて来たらメリハリをつけて行けば良いのですよ。緩急をつけて、注意するところ、ちょっと急いでも良いところを見つけて行く。それも基本は同じだと思います。私も同じですから。」
そんな話しをしましたら「辻川さんはお幾つなんですか?」と初めてくらいに私の事を聞いてくれました。
「もう67です。コースが決まった限定運転士なんですよ。」と返しましたら「とても見えません。身体もガッチリしていますし、60くらいかと思ってました。」と言います。
あ〜、この人は正直な人なんだと思いました。話を盛らないからです。なので「嬉しいです。ありがとうございます。」とお返ししました。
「もしかして一人暮らしなんですか?」とちょっと親しくなった感じがしたのでプライベートな事を聞きました。
「はい。30年一人暮らしをしています。」と言ってくれましたので「一人は大変でしょうね。一人暮らしの大ベテランですね。」とお話ししました。
じゃあ自分で30年も一人暮らしして生きられるの?って考えたら、やっぱり凄い事だと思うから。
バスの清掃姿もそれとなく見ておりますが、丁寧に良くやっております。
裏表と言う感じがしません。正直過ぎて上手く渡れない人なのかなって思います。
でも自分を投げないで、生きている。
語りかけながら、やはり力をもらい、基本人頼みだった私を反省した次第でございます。
(筑西市を散策しながら、たくさんの花を撮り続けていた事が今改めて分かりました。前を向く力をもらっていたのかも知れません。)
私は、ある時点から自分が自分である事から逃げておりました。
自分が言って来た事、やって来た事を全否定された様に感じ、目を背けて見ない様にして来ました。
「過去」に否定的に触れられると行き場の無い怒りが湧いて来たのです。
自分への背信と言う怒りが、そこに触れた人への怒りになった。
でも本当は、自分から逃げるのを追いかけていたのも自分なんですね。
逃げるから自分も周りも巻き込んで傷をつけてしまう。
自分と向き合い直して、自分を受け入れて、自力で立つ。それ以外に、他の人を受け入れるなんてできないのだと思います。
自分を受け入れていないのに、人を受け入れられるはずがない。
人の関係は、束の間の関係の連続の様に思います。全てが束の間であり、永遠の時間なんて事は無い。だから今のその人との関わり、関わる自分が大切なんだと思える様になって来ました。
ダメな自分や逃げていた自分と向き合いながら、残り時間が少なくなって来て、多少なりとも知恵が付いて来たのでしょうか。
生きている今と自分を心から大切に思えると、今を共に生きている人との時間や空間の大切さが見えてくる。別々では無いのだと思い始めています。
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2025/03/01 13:48
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孤独な存在だから世界を広げる。
色んな事がありました。労働運動をやろうと国鉄に入り、仲間たちと新しい労働組合を作りJRに移行し、党派の殺人のターゲットにもなりながら子どもが生まれてもろくに会えず、それでも折れずに鬼の様になって立って来た。
小さくはない身体を「いつかは仲間たちのところに戻って、一緒に仕事をする。」との一念で鍛え上げていたので、顔が怖かった上にマッチョだったので、暴力団関係者に誤解されて「スカウト」されたりも致しました。
何気にそう言う方たちの愚痴や本音を聞かされたりもして、面白かった。
まあ、強面でも結構優しいところがあったりするので、近かったのかも知れません。「極左です」と言う私の素性は、相手には理解不能でしたが、私の方は人の世界を広げてもらいました。
私の労働組合は、人種や門地、性別、思想信条で人を差別しないと言う事を原則にしておりましたので、私がヤクザだからと色目で見る事はありませんでした。人としてダメな人と、そうでない人がいるのは、どこの世界でも変わらない様に思います。
(庭の小さな南高梅が、精いっぱい花を咲かせてくれました。良い香りが致します。)
中小企業のバス会社に来ても、私の世界は広がり続けている様に感じます。
元警察官がいたり、前職や生きて来た環境が全く違う人たちが、同僚になる。偏見なんかで見ていても、通用なんか致しません。
面白いと思うのは、新しくバス運転士を目指して入って来る人がバス会社を渡り歩いている人たちでなく、「新たに挑戦したい仕事」として選択して来ると言う事なんですね。
そう言う人たちが入って来る度に、職場の雰囲気が変わって行くのを感じるのです。
昔からこの会社の労働者に関わって来ましたので、時代が変わったなーとしみじみ思います。
(お裾分けのお返しに頂いた九州直送の文旦。とても美味しく頂きました。)
どうも人の名前を覚えるのが苦手で、聞いてもすぐ忘れてしまうので、聞いたら密かにメモる様にして覚えます。
名前と言うのは、覚えてもらえると嬉しい様に、ちゃんと相手に関心と興味を持ち受け入れるスタートの様に思います。
つまり、マナーの土台だと思っています。
親しくなった年下の人なら、ファーストネームで声をかけられる様になるともっと親近感が増します。
なので新人さんが入りましたら、私の方から声を掛けさせて頂きます。
最近入った人は、自衛隊の人でごさいます。
バス運転研修の感想を聞いたりするのですが「自衛隊のトラックとホイールベースの長さが違ったり、ブレーキのタイミングが違ったりとまだまだ伸びしろがあります。」と話してくれます。
目が生き生きとしていますし、仕事への姿勢も凄いと感じていましたら「中隊長でした。」との事。「部下には失敗しても良い。ケガだけはするな。失敗は2度しない様にどうするかを考えろ。と部下には指導して来た立場なんです。」と語ってくれました。
どうりで姿勢が凄い。私が恥ずかしくなるくらいちゃんとしております。
何より自衛隊員の部下にケガだけはするな!って指導に感心致しました。
(寒い時期の水仙の花期って長いのですね。まだ頑張っております。)
ちょっと調べて見ました。中隊長と言うのは昔だと大尉。かなり地位が高く、現場の隊員を日常的実戦的に指揮する立場なんですね。
大体150人くらいの隊員を指揮する立場との事です。
150人と言うのはダンバー数と言って、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案された数だそうであります。
こちらも面白い。人間はあまり多くいてもまとまらない。150人くらいの目が届き、良い関係が維持できる数の現場の人を指揮できる人。
それが中隊長なんですね。
数的に言うと、私なんかは小隊長でしたからちょっと人としてのスケールが違う訳です。
私がバス会社に来なければ会えなかった人たちに会えて、私の世界がまた広がっています。
世界は、市場原理で人としての社会のブレーキを失い弱肉強食に変わっている様に思います。
人頼み、国頼み、会社頼みではどうにもならない。そして、いずれ一人で死んで行く。
親戚なんてのは、とうの昔に崩壊しておりますね。
実は過酷な現実なのだと思います。
過酷さを嘆いていても、何にもならない。
生きて行くためには、自分で根を張って行くしか無い。
だから、自分がしっかりしなければ誰も気に止めてなどくれない。
と言うか、私が気に止めて行くしか無い。
孤独である事。それをしっかり感じる事が大事なのかも知れません。
仲間たちのお陰で孤独を感じずに済んで、人に甘えて来ただけだなと思い直しています。
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2025/02/28 15:10
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「自己責任の時代」と「STORY」
毎日色んな事があります。
夜乗務の点呼が終わり、ドライブレコーダーの結果に捺印し乗車人員を記入しておりましたら、点呼の人に「辻川さんは、きっちりした字を書きますよね。いつも感心します。」なんて言われました。
書類に字を書く度に「下手くそだな〜」と感じ、自分で納得できる字なんて一生書けないのかなと嘆いている毎日です。
なので「まさか〜。他の人と間違えてないですか?」といつもなら「ありがとうございます。」と返すのですが、否定してしまいました。
それから帰宅して、お風呂に入りながらちょっと振り返って見ました。そういえば「字が上手い」とか「綺麗」だとかは言って無かった。「きっちりした字」と言ってたんだよな〜。
そうすると、私の方がやはりちゃんと相手の話を受け止めていなかったんだ。そんな事に気付いて、申し訳無かったと考え直した次第です。
バスの運転も、清掃も、書く字も、それから人とのコミュニケーションも、何だか嫌になってしまうくらいまだまだな〜って思います。
下手くそで雑なのですから、なるべく落ち着いて運転しないと、字も正確に書かないとと自分に言い聞かせながらですので、その方の感想への返しはやはり「よく見て頂いてありがとうございます。」だったなと反省した次第です。
(昨日も日本人の乗客から「喜捨」を頂きました。)
私は、自分の思いを情熱にして労働組合のリーダーを長くやって来たためか、どうも自分の思いが勝ちすぎて人の思いが分からないところがあります。
熱いリーダーだからこそ、みんなが付いてこれた時代もありました。また、そう言うリーダーに付いて一緒に行動する事に喜びがあり、勝ち取れる事もありました。それで、不可能に見えた事が可能にもなった時代だったのかも知れません。
私の方は、熱い思いを引いたら雑さだけが残ってしまいました。良い年になって、恥ずかしながら雑さしかない私自身との嫌になるくらいの格闘の日々なのでごさいます。
(今朝の車庫からの夜明け前です。)
国鉄分割民営化の「成功」とそれに対して長く続いた解雇撤回闘争がありました。
それがどんな社会的意味があったかと言うと「解雇するのは大変」と言う事を思い知らせたのです。
それを総括した2003年の小泉改革で、労働者派遣法を全面的に拡大して、非正規雇用化を進めた訳です。企業は雇用や生活に責任のある正社員と言う面倒な存在から解放されて、切り捨て自由で労働者を働かせる事ができる様になりました。
それから企業も政府も「選んだのは自己責任」だと言い出したのです。
まあ、胴元がルールを変えて「自己責任」だと言うのですからイカサマみたいなんですが、そのルールの直撃を受けたのは若者たち。
秋葉原事件や荒川沖駅事件など非正規雇用や派遣労働者の青年による悲惨な殺人事件が起きました。
命を奪われた人も、奪った若者にも何とも言えない思いがあります。
どうして、そんな状況に追い込まれたのかを分からないまま突然殺され、他方は死刑になった。殺害には殺害で応じる。それで命の大切さなんて、伝えられない様に思います。
一体何が解決したのでしょうか。
話は変わります。バスの乗降口の扉は、「自動扉」ではありません。勝手に開いたら危ないのですから、運転士が操作します。そして、非常の際はこの蓋を空けてエアーロックを解除する様になっております。
私が、特別支援学校のスクールバスを運転している時に、何とその子どもたちにまでずいぶんと助けられました。
例えば車椅子をしっかり固定された少女に、とても気が付く子がいて「運転士さん、蓋が空いていますよ。」なんて教えてもらったりしました。私の閉め忘れでした。
例え身体が不自由で、身動きができなくても、人の役に立ちたいと色々と助けてくれました。本当は悲しい事や辛い事がたくさんあるでしょうに、でもいつも笑顔の女の子でしたが、今は社会人。無事に元気でおられるかと、バス扉の蓋を見る度に思い出します。
その子が好きだった歌がありました。
https://youtu.be/nMROhyihehU?si=nSpiN1kSpHMUPmTq
AIさんと言うシンガーの「ストーリー」。
「辻川さんは、カラオケで何を歌ったの?」と介助人さんに聞いて「ストーリーを歌ったよ。」と聞いて「私も歌うんだよ」ってとても喜んでくれた事もありました。
この歌は2005年の発表以来、ずっと支持され続けて来たのですね。
自分の思いや情感を歌う昭和の歌と違い、この頃から若者たちの心を支える様な歌が歌われる様になった感じがするのは私だけなんでしょうか?
政府も、会社も、社会保障も、年金も「成功者」と強い人以外には頼みにならない時代が「自己責任」の時代なんですね。
これまでの社会構造は終わった。だから甘えるな、と言う事かと思います。
これまでの構造を批判しながら、しっかり甘えて成り立って来た時代と、今の若者たちが向き合っている時代の厳しさが違うのだと思います。
その中を生きなければならない。
その厳しい時代だからこそ、人への思いやりや優しさが負けずにある事が生きる支えになっているのかなと感じます。
雑な私が、無反応に負けず声をかけ続けている理由かも知れません。人の支えこそ、弱者が生きる術である事は、人の字そのものが表していますね。
古来一人では、人の字にもならなかった事は今でも変わらないのだと思います。
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2025/02/27 14:02
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