辻川慎一つくば便り

心の汚れを掃除する

昼間は酷暑が続いていますが、穏やかな朝を迎えています。

爽やかな空気感の中、妻が「ごはんができるまで寝てて良いよ。」と言ってくれたので、甘えさせて頂いています。

私の「人事移動」の事でちょっと残念な事もありました。何事も徹底して考え、行動するので尊敬し、信頼して来た会社幹部の人がどうやら私が思って来た様な人では無かった様なのです。

とても頑張っていて、凄い人だな~と思って来たのですが、思い返して見ると他の人の事について良く言った事がありませんでした。

「なんで俺がこんな事をしなければならないんだ。」と一緒にやりながら愚痴ってもおりました。「それほど忙しい人なんだよな。」と「少しでも力になれると良いな。」と私も頑張りました。

しかし、そんな私の事も良くは思っていなかった様です。


(買い物ついでにちょっとドライブ。つくば市北条の農産物直売所です。北条米のおにぎりがあるかな?と寄って見ました。)


大企業とは違いますが、高い地位にいる。でも、不本意なのかも知れません。

しかし、それでも多くの労働者からすれば自分たちの上に立ち、責任と共に地位と名誉がある立場にある。

それが不本意だととすると、その指揮で働いている人も喜びは感じられないのではないか?

そんな風に思います。


(黒いパプリカもあるんですね。はじめて見ました。)


人は、信頼できる人と一緒にやれる事に幸せを感じる様に思うのですが「権威」や「権力」そして「見かけ」を大事にしていると、どんどん心が空洞化してしまうのかも知れません。なので、結局愚痴がでる。

そんな事なのかなと思う訳です。

では、私はどうなのか?

あ~かなり愚痴って、人のせいにもして来ました。私の様な者を信頼して、ついて来てくれた仲間たちがいたにもか関わらずです。

なので偉そうな事は言えません。


(昨日の筑波山です。分かりづらいかも知れませんが、すでに紅葉が始まっているのです。)


小学生の時の教科書でしたか「周梨槃特」(シュリハンドク)と言うお釈迦様の7番目の弟子の話しを何故か思い出してしまいました。

自分の名前さえ覚えられない「愚か者」で、お釈迦様の話しも理解できない。なので「掃除をしなさい」と命じられ、来る日も来る日も徹底的に掃除をするのですがお釈迦様は「良くやった」とは言わない。
で、ある日子どもたちが、掃除したところを汚してしまう。それに怒ってほうきを振り上げる。その時に悟る訳です。一番大変なのは心の汚れを綺麗にする事だと。

「次に使う人のためとか自分の続ける意志を高めるためではない。掃除を続けることそのことが大事なことなのだ。心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。これがシュリハンドクの行ってきたことなのだ。
 修行とはそのようなものではないのだろうか。何かだんだんと上を目指して階段を上がるような修行を考える人もいるのかもしれない。しかし、シュリハンドクのように、汚れたらまた掃除をするということは、私たちの生きる姿を表わしてはいないだろうか。
 
 法然上人は「 愚癡に還って極楽に生まれる」といわれた。」

コピペですが、と言う訳なんですね。

最近は、違う様ですが私が小学生の時、学校の掃除は先生と一緒に自分たちでやりましたね。

そこも汚いとか危ないとかで外注化しているのでしょうか?

考えて見るとお母さんたちは、子どもたちを綺麗にして、家も掃除して、料理までして、その労働は当たり前の様にされて来ました。私たちが当たり前にしてはなりませんよね。

生きる事の日常を女性に外注化して、しかも低賃金労働者としても「活用」して来た訳です。

お釈迦様の様に手を合わせてその教えに感謝する事も無くです。

ちなみに、妻には掃除の仕方が雑だと日々指摘されている私でありますので、悟りの道はまだまだ遠い様でございます。

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