辻川慎一つくば便り

命は、仕組みでは見えない。

今日は、新年初仕事でございます。

健康に気づかい、無農薬野菜を作り、私にもたくさんくれた同僚が「手の痺れがある」とお休みになってしまいました。

震災だけに限らず、誰しもに、これで絶対大丈夫と言う事は無いと思う初仕事です。

それでも、何をやっても無駄だなんて事も無い。人には、困難に負けない努力をする力があるのだと思います。

その力は、共に闘い、生きる存在がある事で生まれる。

人が人たるゆえんだと思います。誰かの支えがあって「人」の字になり、人の間にあって「人間」なんですから。


新年には、富士山も見えて、足利では赤城山も見て来ました。


こちらでは、雪はありませんが、やはり筑波山です。

「アンチエイジング」と言うよりも、私が働けなくなればたちまち困窮する現実にありますので、健康である事が一番の課題になります。

なので、運転では使わない体全体を動かす様にしながら公園を歩きます。


たくさんの鳥の中に「ユリカモメ」もいました。


人は、他のものや人の姿形を見たり、舐めてみたりしながら五感で他の存在を認識し、広げるのですが、いつしかそれが「仕組み」を頭で解明する方向に向かいます。

つまり、頭で考える事が優位になり、世界が解明できるかの様に思ってしまう。

それが、世界に未知なものが無いかの様な状態にまでなってしまう。


ところが、どれほど細分化しても命は見えないのです。


人間の命だけでなく、大自然や営みも見えては来ない。

志賀原発に活断層は無いから絶対に大丈夫!と言っていたのに、今度は「未知の活断層があった」と言っております。

結局、分かっているとか、絶対大丈夫なんて事無いのは、東日本大震災の時と同じなんですね。


(こちらは足利で咲いていた桜です。)


命は、仕組みではなく姿・形としてある。それを人は見て感じる事ができる。

森羅万象に命を感じ、見て来たのが人間なんですね。自然は、自分の美しさを愛でるために、人間を生み出した!と言った人もおりました。

そうしますと、年を取るのは辛く醜いなんて「常識」も頭の世界の事の様に思えて来ます。

土台醜い生き方をしているかどうかは、年齢に関係ありません。姿・形に現れた生き方の美醜があるだけなのだと思いませんか?

「年を取り見た目が悪くなるのは、運動不足とストレスによるところが大きい。
認知症リスクは勉強し続ければなることはまずない。
頑固はコミュニティ(世界)が狭くなった証拠で、内輪ネタしか無いところから来ている。単純に社会人のライフスタイルがそうさせているところが大きいだけです。」

との事。生き方やライフスタイルを反省したり、学んだりせずに分かっているかの様になってはいけないのだと思います。

駅伝の青山学院の強さは、「技量や才能の前に、日常生活を仲間たちと一緒にちゃんとできる事」が土台なんですね。

それは、人としての土台が日常にある事。日常を蔑ろにしないところに、人の、そして自然の命を見ていく姿勢ができるのだと思うのです。

まあ、私の母や妻がやって来た事でございますが。

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