辻川慎一つくば便り

森と月の物語

梅雨はどこに行ってしまったのでしょうか?おコメや作物は大丈夫なんでしょうか?
これで大丈夫なんて事が無いのは、自然も政(まつりごと)も同じ様に思います。

かつて「民営化すれば大丈夫」なんて極端な事を主張して、支え合いの社会をぶっ壊してしまった政治家や評論家たちもおりました。

まるで野菜を食べてれば大丈夫!と言ってこってりラーメンを食べ続けてさっさと逝ってしまった強気の同僚の様な感じがしてしまいます。

そんなに単純な解決方法なんか無いのですよね。賛成か反対かなんて単純化せず、決して傲慢にならず、謙虚に忍耐強くみなさんの力を集めて行く事が大切な様に思います。



朝の出庫前に、気持ちを落ち着けるために森の木を見ておりました。

森の木を見上げると月が見えました。点呼を受けて戻りましたらもう見えません。

一瞬で消えてしまいました。
ところで、月が無くなった訳ではありませんね。

実は、月からすると一瞬で消えて行ったのはコチラ側。つまり人間の方です。

35年前、この会社の門前で労働組合からの頼みで街頭演説してから一体どれだけの人がこの世を去って行った事でしょう。

経営側も、労働者の側も。
どちらの人たちにもお話しを聞いて両方が納得する話し合いをする事は大変な事でしたが、どちらも私を離さず頼りにしてくれました。

なので、他界された後も一人一人の物語が私の中にはあるのです。

して見ると、人と言うのは宇宙や自然の中では一瞬で消えてしまうのですが、限られた一瞬の中で物語を紡ぎながら生きているのかな?なんて思ったりします。

月も森の木も黙っておりますので、自分たちで紡ぎ、語るしか無いのかなって思います。

人間は、命に限りがあり、孤独である事を知ってしまったから。


(万博記念公園の夏椿。確かに椿の様に、花が頭からボタッと落ちます。)

アメリカ映画界もですが、物語が出尽くしてネタ切れになり、リメイク作品も多い感じがします。

物語に特別なものが無くなってしまったのかも知れません。

人生がつまらなくなっている事の反映なのでしょうか?

人の物語も消費や売りの対象にして来たツケの様にも思います。

物語は売ったり、消費したりするものじゃないのですよね。

その中に身を置いて感じるから、物語は他の人に取っても大切だったり愉しいのだと思います。

そうすると、一緒に紡ぎ出し始めるから。

批判や批評も、消費の価値観。一緒に感じたり、一緒に紡いだりとは違う様に思います。だから、やっぱり一瞬で消えて行く。

物語には、限りある人の人生の中に残り、孤独な存在である事からの解放があるんじゃないか。

そんな事を思ったり致します。

一日また一日。私の物語も自分自身で紡ぎながら、人の物語も紡いでいる。

そんな風に思います。
では、長い昼間の夜乗務に行って来ます。

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