みな様、日曜日をいかがお過ごしでしょうか?
昨日は休日出勤でございましたが、帰りがけに年下の上司から「お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい。」と労いの言葉をいただいた事がとても嬉しく感じました。
自分は休む事もなく働いているのに、相手に対する気遣いを言葉として伝える。その事が気持ち良く、頭が下がります。
こうした気遣いや人が見ているからでなく、見えないところで手を抜かない。むしろ見えないところを大事にする。そう言う日本人の伝統や文化はどこから来ているのかな?なんて考えます。
もちろん法隆寺等の素晴らしい木造建築の伝統もあります。
でも、恥ずかしい行いや卑怯な振舞いは自分自身を辱めるものである。と言う考え方を強くしたのは、鎌倉武士の精神だと言われます。
たとえ人が見ていなくても、自分自身の行いは天が知り地が知っている。だから何よりも、自分の名にかけて誇る生き方をする。それを「名こそ惜しけれ」と表現する様です。
(つくば市大角豆の「ぱいかじ」に寄って見ました。私が尊敬する職場の先輩ガイドさんがFacebookで紹介されていました。しっかり作られていて優しい味がしました。確かに美味しいです。)
私は見ていませんが、NHKでも鎌倉時代がテーマのドラマをやっているのですね。
新しく武士の時代を開くことを、揺るぎなく貫いたのは源頼朝ではなく北条政子であったと言う話しもあります。
そして広く氏名を名のり、族と己の名を大事にする様になったのも鎌倉時代に始まったと言うのですからやはり大きな文化的転換点だったのだと思います。
(お店にも名前があります。「名こそ惜しけれ」は同じではないでしょうか。)
人間が生まれて最初にされる事は、名前を付けられる事。名前を付けられる事で、私たちは一個の人として迎えられるのです。
名前と言うのは、凄く大事なんですね。その名前の人がどう生きて行くのか?
それが他の人にも深く影響しながら、社会や文化を作り上げて行く。
一見孤立している様で、本当は違う。「名こそ惜しけれ」と言うのは、共にこの世に生きる人に対する姿勢なのだと思うのです。
他の人の存在に対する感謝と尊敬があってしか成り立たない文化なのでは無いのかな?
安っぽい「成功」やバブルの様なお金で投げ捨てられて来た最も大事なことが、そこにある様に思います。
名こそ惜しけれは、どんな迫害を受けても仲間たちと生きてきた動労水戸と言う労働組合の最も大切な精神的柱であったと思います。
それは、安倍晋三元総理の銃撃で、金と票のためにカルト的宗教団体とも手を結び、危うくなればしらばっくれる様な人たちとの対局にある生き方であったと思うのです。
仲間を踏み台にしたり、売り渡す様な事を恥じる。人が見ていないところでもごまかさない。
名を汚してもごまかせると言う情けない世界と闘いながら、日本人の真の文化が伝えられて来た様に思うのは、果たして私だけなんでしょうか?