辻川慎一つくば便り

何が間違って来たのか?

雪の朝に続き、今朝はマイナス4℃でございました。

バスの窓の氷が、外気が低すぎて簡単に溶けませんでした。

乗務後に、カーテンを洗濯しようと計画していたら水道が凍っておりました。

昼間も気温があまり上がらないので、いよいよ冬本番かなと思います。

手もしびれて字を書くのも、一つ一つの作業もなかなか思う様には行きません。


私の担当バスは古いタイプなので、色々と不便で「余計な」作業があります。


シートベルトも、収納式ならば放っておいても大丈夫なんですが、使用後はこの様に一つ一つそろえておかないと乱雑になってしまいます。いちいち「面倒」なんですね。

カーテンもUVカットで、ややスモークがかかっている新しいバスにはありません。

手間がかかる訳です。

不満を言えば、不満だらけになってしまいます。

でも、その分常に「面倒くさい」と思う自分の心と向き合い、乗ってくれている人たちとも向き合う事になります。

それを誰かに認めて欲しいとなると、認められない事に不満が出て来る訳です。

そうしますと、私を認めて欲しい。→お金でか?名声でか?になるのですね。

ところで、財産や名声を目的とするならば、どんなに立派な事をしても小さな事になる。小さな事でも、自分が善いと思う事を積み重ねる事が人としての本当の天の道であり、幸福があるのだと江戸時代初期の中江藤樹さんが言っております。

人は分類しても分からない。肉体と知と魂として、一人一人と向き合う事でしか人としての関係にはならないとも言っております。

不思議な事に、それから400年経った今でも同じ事を言っている人がおります。例えば生物学者の福岡伸一さんや宇宙飛行士の毛利衛さんです。

現在の最先端にある人と江戸時代の学者さんが、同じところに到達していると私は感じて驚きます。

分けるのではなく、お互いに切れない関係で私たちは生きている。借りに人や生命が終わっても天(宇宙)の道は終わらない。天の道を歩むのが人本来なんだ。

そう言う点で同じと感じる訳です。


フェイスブックで見かけました。


私が生まれた富山の街からは、立山連峰が晴れればこんな風に見えるのです。冬の景色ですね。

父が家族のために、仕事を求め故郷を出なければ私も、この山々を見ながら富山で育ったかも知れません。

茨城よりも過酷な冬がある富山、岩手、北海道で父が働き、母が家事をしながら私を育ててくれたのですね。

そんな私が、いつか「名」のために両親を苦しめながら「大義に生きる」といい気になっていた訳です。

私を育てるために、苦労を厭わなかった親を顧みないところで、私は天の道から離れていた。

どんなに立派そうな事を言い、やっていたとしても、それが自分の名声や評価のためであるならば何にもならない。

真心では無いのですから。
その報いを受ける事になりました。

師走に走るバスを運転しながら、寒さの中でバスの清掃・整備をしながら、何より自分のダメさと向き合い、これからどう生きるべきかを考えております。

親の恩を忘れず、日常生活をちゃんと見直す事が全ての土台であると言うのが、中江藤樹さんと妻が同じである事にも驚きます。

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