辻川慎一つくば便り

三連休に入りました!

みなさま、何と三連休でございます。忙しい日々が続き、実はヘトヘトでしたので心も体もホッとします。

私のJR時代の仲間たちにも炎天下で厳しい仕事に携わっている人たちがおります。

その仲間たちの事を思えば、何クソ!まだまだ〜って気持ちになります。

私が、仲間たちと一緒に国鉄分割民営化に反対したのは、そこで生きて働いて来た人たちが全て悪いかの様な理不尽さが許せないからでした。

国鉄の赤字の責任は労働者にある。だから、働きたければ仲間だなんて言ってないで自分だけ生き残る事を考えろ。労働組合何ていう共同性は、資本増殖の妨害物なんだから会社に残りたければ屈伏しなさい。

そう言う事でした。
「いざとなったら闘う!」と言っていた労働組合の幹部たちは、いざとなったら率先して逃げてしまいました。

どうして良いか分からなくなった現場の労働者やその労働者たちとの板ばさみにあった現場管理者(助役さんたち)が次々と自殺する。

私の後輩も命を絶ってしまいました。今ではもう忘れられている事ですね。私の先輩にもおりました。

みんな嘘ばかり。
本当の信頼って何だ!
仲間を裏切らない労働組合を自分たちで作ろう!

そうして作ったのが動労水戸と言う労働組合でした。


(土浦市木田余の蓮畑から常磐線531系を撮りました。)


会社(国鉄・JR東日本)は、全員20代で作られた労働組合に衝撃を受けて、私を仲間たちから引き離しました。

電車運転士から外し、23年間もの間駅のそば屋さんや売店などに隔離した訳です。

最高裁判所の判決が出る前に、一緒に隔離されて来た組合員も全員鉄道職場への復帰を果たします。

鉄道員として就職したのに、鉄道職場から排除され続け、鉄道職場に残った組合員もあからさまな差別と嫌がらせを受けました。

私は、その悔しさと怒りを自分の悔しさと怒りとして来ました。

嫌がる会社をねじ伏せて、「勝田車両センターに配属しろ!」と迫ったのは、仲間たちの怒りを背負った私の執念でした。



ですから、私が勝田車両センターに行ってから退職するまでの8年間は、鬼神の様になって仲間たちと一緒に闘い抜きました。

「辻川さんを車両センターに配属した事を、絶対に会社は後悔してます。」と車両センターの仲間たちが言ってくれました。

悔しさを呑んで頑張って来た仲間たちも「あの8年間が俺たちの動労水戸なんだ!」と言ってくれます。

そして、私が定年になった60才に、JR東日本が提示した再雇用の条件はまたしても私だけ隔離すると言う事でした。

私は、ギリギリまでJR東日本と闘いました。

何を言ったかと言えば「あなた達が、動労水戸の組合員にしてきた事が何だか分かっているのか?私をその組合員から23年間も引き離し、再雇用の条件として再び隔離すると言っているんだよ。そんな事を呑めるはずが無いでしょう。」と言う事です。


それこそ何回も、何時間も、私は真摯に、切々と「組合員から引き離す事は認めない。」と話しました。

担当者の方が泣き出した事も忘れません。現場長は、何も言えませんでした。

こうしてタイムリミットになり、私はJR東日本を離れる事になりました。

大会社ですし残れば、中小企業とは比較にならない待遇であった事でしょう。

しかし、いつだって私がズルして、折れたら終わりだと思って来ました。

それが、私が国鉄分割民営化の中で一番の教訓にして来た事でした。

なので折れなかった。
折れそうになった時は、何度もありますが折れなかった。

そこにはとても深い怒りと悔しさがあります。


(今日の筑波山。残念ながら霞んでおりました。桜川河岸です。)

そんないい加減な人や事のために、人生を変えられ、命まで絶った仲間たちがいるんだ!

ふざけるな!
俺はいい加減にしない。

そう言う事なんです。
既にJRを去って6年になりますが、微動だにしない仲間たちとの信頼とは、私が折れなかったところにあると、そして「辻川さんが倒れそうになったら俺たちが支える」と言うその関係の中にあるのです。

なので、ただの仲良しでも昔話でもないのです。

それを軽く見ている人たちには、決して分からないし崩す事もできません。

昨日の、高等裁判所へのJR東日本からの控訴状について4枚ではなく7枚だと言う訂正が入りました。内容が変わる訳ではなく書面のページ数の訂正です。

そんな軽さで、40年近くに及ぶ労働者の歴史と怒り、悔しさをひっくり返せる訳が無いのであります。

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