辻川慎一つくば便り

ちょっと休養チュー。

昨晩の夜便。いつも最終便に乗るベトナム人の実習生の女性に「今日は早かったですね。」と話していましたら「食べませんか?」とサンドイッチを頂きました。ベトナム語のあいさつを教えてくれた人です。私の名前を覚えてくれますので、私も彼女の名前を覚えております。

想定外の事でしたが「ありがとうございます。頂きます!」と一つ頂きました。

そこに、別の同僚が来て「辻川さん明日の土曜日は休みですか?」と聞いて来ました。「以前と違い、もう責任者ではないので私には何の情報も入って来ないのですよ。出勤日が分からないのは困りますね。」と話しを致しました。

その同僚が自分のバスに戻りましたら、「実習生」の人が「私が、出勤日のカレンダーを持っています!」と探して見せてくれました。

「わぁー、ありがとうございます。助かります!」と重ねてお礼を伝えました。

毎日送迎している「だけ」の私を気にかけて、できる事なら助けたいと思ってくれている事にとても嬉しく感じた次第です。

人として、できる事なら助けになりたいと思っているのですよね。「大変で、かわいそうな人たち」なんかではなく、人としてはお互い様で対等なんだよな〜って学び直した瞬間でございました。

人種も、国籍も関係ない。人としての関係なのだと思います。


(大日如来。宇宙の仏様なんですね。如来も自分の中にいる。)


そんな事がありながら無事に乗務を終えた訳ですが、どうにもフラフラが止まりません。

帰宅して妻が作ってくれた美味しく温まるお汁を頂きながら、軽く一杯やりお代わりをしようと立ち上がりましたら目まいがして床にこぼしてしまいました。

ストレスで自律神経がおかしくなっているのだと思います。これ以上無いくらいの悲しみの時から不定期に続いて来ました。

自分では大丈夫と思っても突然フラッと来るのです。先日もそれで運転席のドアを隣のバスにぶつけてしまいました。突然来るので構え様が無いのが辛いですね。

そう言っても、経験してなければ分からない人には分からないのですから。不注意としか思われませんので、謝るしかないのです。

自律神経の失調の症状の一つにフラフラ感や目まいがある訳ですが、直接的には脳の血流が悪くなり酸欠状態になるのでフラッとするのですね。

身体全体もですが、脳の血流を良くする対策を自分で取らなければなりません。

と言う訳で、朝からストレッチをしたり足踏みをしたりと軽い運動をやり、朝日を浴びながら深呼吸をしたりしました。


遠方から友人が訪ねて来てくれましたので、一緒に常陸秋そばを頂き、お風呂に入り温めの「重炭酸泉」にゆっくりと浸かって来ました。


温めながらストレス発散ですね。

簡単に良くなる訳ではありませんので、じっくりと。目まいが来る事にも構えながら。

色々とこれまで通りには行かないのですが、同年代の理解し合える友人がいると言うのにはやはり救われます。

ますます救われてばかりの人生でになって来ました。


(仏になるための修行を積むのが菩薩なんですね。菩薩も自分の中にいる。)


さて、最近知った事ですが、キリスト教などの考え方と仏教の大きな違いです。

西洋の神様は、自分(人間界)と別なところにいると考えるのですが、仏教の神様(仏)と言うのは自分の中に、自分の心の中にあると考えるところが大きな違いなんですね。

自分自身の中の仏(神様)を生きる。自分自身が如来や菩薩になって行く。そのための修行をする。修行とは特別の事ばかりでなく、私たち人間界の日常の中にある。

そう言う考え方なのだと思います。

人の心の中に仏もあれば、卑しさもある。自分自身を見ると分かります。だからこそ、仏の心を見いだして、そこに生きよう。

仏の心や道と言うのは、大日如来にも現れておりますが、宇宙の道・天の道に通じている様に思います。

自分の都合の良い様に、ご利益ばかり願うと言う事とは全く違う考え方なんですね。

自分の中の仏を生きる、そうして人は仏になって儚く限りある自分の生を全うする。

なるほど、キリスト教的西洋的考え方と根本が違いますね。

神様のために生きるのではなく、自分の中の神・仏を生きよ!って事ですから。

目まいがして、フラフラしながらも、見えて来た事もございます。

心の中でもっとも尊いのが、慈悲の心。母の子に対する無償の愛なんですね。

立派な建前ばかりで、実は「現世御利益」の人たちばかりなので、自分の夕食であろうサンドイッチを一つ分けてくれる労働者の気持ちが嬉しく感じるのかも知れません。

私も自分の仏を探して、生きないとと思います。

今日は、ちょっと休養しております。

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