辻川慎一つくば便り

あれは何だったのだろう?

国鉄分割民営化の嵐の時代。日本最強と言われていた労働組合には、「党派のるつぼ」と言われるほど色んな政治党派があり、それぞれが自分たちの正当性を主張して覇を競っておりました。

私もその中の「極左」と言われた党派の一人として、疑問もありましたが真っ直ぐに闘っておりました。

それぞれが影響を受けて正しいと思う党派を信じた。

高度経済成長があり、そのきしみがたくさんある中でも「信じる」事ができた幸せな時代であったのかも知れません。

人の関係も単純に熱かった。そこに生きられた様に思います。


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国鉄分割民営化を進める側の実務者と、徹底して反対した側の私だから同じ思いになったのだと思います。

「あれは一体何だったのか?」

そして、今の時代に会社も労働組合も、例えリスクがあろうと引き受ける人材の不在。と言うか育てられない社会の現状。

99%の中小企業労働者よりも圧倒的に恵まれている大会社の労働組合の責任者として奮闘して来た友人が「私が言うのはおかしいけれど、大企業労働者に本当に労働組合が必要なんだろうか?と思いはじめている。」とちらっと本音をこぼします。

国鉄改革の前面に立って来た人、大きな労働組合で難しい舵取りをされて来た人、そして小さな労働組合で激しく闘い抜いた私。

それが、同じ思いに行き着いている。

「あれは何だったのか?」そして今に通じる何の意味があったのか?


40年前夢中になって読んだ記憶がある「青春の門」の作者五木寛之さんの古本を手にして読みました。


沁みる様に内容が心に入って来ました。

五木寛之さんは、両親と共に日本の植民地だった朝鮮の平壌(今の北朝鮮の首都)で敗戦を迎え、その惨状の中で母親を失っております。

その時に、政府がラジオから伝える「大丈夫」と言う話を疑わずにいた人たちが残され、目ざとい人や上層部の人たちはさっさと逃げてしまった。

残された人たちは、自分たちの組織を作り、その代表を選んでいきなり攻めてきたソ連軍(今のロシア)と交渉する術も持ち合わせていなかった。

と述べております。

あ~そう言う事だったのか!
確かに国鉄分割民営化の時も、日頃偉そうな事を言っていた政治党派の労働組合幹部から逃げて行ったのは同じだった。

上手い事を言いながら、自分たちは逃げる、あるいは上手く立ち回る。そして置いて行かれるのは、そんな人たちを信じて来た現場の労働者たちだった。

党派も幹部も上手い事を言いながら、本音は何とか助かりたい。犠牲は止むを得ない。

それが見えたから、自分たち自身の組織―新しい労働組合を作って闘って交渉する事にした。

五木寛之さんが語っている事の中から「俺たちは、党派を選んだのではなく辻川さんを選んだのだ。」と言う意味が、ようやく分かったのです。いつしか組織と人の関係が逆転して、組織のための人になる。

いつの時代も、どこの国でも変わらない事がある。

大変な困難であればあるほど、人には組織が必要になり、それをまとめ代表する人格があって切り抜ける事ができる。

逆に言えば大した困難を感じ無ければ、組織も人も必要無いと言う事になる訳です。

それぞれが、それぞれで何とかなると思われる時代と言うのは本気で組織や人を求めないと言う事になります。

そのまま行ければと言う限定付きです。戦争の時も、敗戦の時も、自分自身の判断や責任を任せていた「純朴」な人たちが一番悲惨な目に遭った。東日本大震災と原発事故では?そして、コロナ禍ではどうでしょう?

その本質的なところの教訓こそ、次の世代に伝えて行く大切な核心の様に思うのです。

私の方は、自分自身の始末を組織頼み、人頼みでなく自分の責任でつけなければならない年になってしまいましたが。

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