あの人が生きた様に
みなさま。
昨日は、楽しすぎて飲みすぎてしまいました。
今日も5時には起きましたが、ちょっと辛かったです。
福島県いわき市での集まりは、JRを退職されてから「いわきユニオン」に入られた仲間の歓迎会でもありました。
その仲間が「俺は辻川さんのラストランの日を覚えているよ。」と言うので驚きました。
私自身には全く記憶に無かったからです。
「辻川さんは『今日が最後の乗務でした』と笑顔で言ったんだ。乗務員のカバンをこんな風に斜めに掛けて、ズボンが短かったんだ。」
そんな話をしてくれました。
私が28才の時です。
国鉄分割民営化、つまりJRになる1年半前の事でした。
電車運転士として2度とハンドルは握れないと言う事への寂しい気持ちはもちろんあったのですが、国鉄分割民営化に反対して「一人の仲間の首切りも許してはならない」と労働組合内でも職場でも強烈に主張していましたので「私が残ってしまう」事の方を恐れていたのです。
それが、ラストランの日の笑顔の意味だったのだと思います。
電車運転士を外されて、JRから排除されてクビになる事がほぼはっきりして、これで仲間たちに恥じる事はないとほっとするなんて、たぶん信じられない事かも知れませんね。
でも実際に、私を強く非難して来た先輩がたもいたのですが、運転士を外されて駅前駐車場に見せしめの様に置かれる姿を見て「お前を誤解していた。済まなかった。」とわざわざ謝りに来てくれた人もいたのです。

(常磐線でいわき市との往復。妻がさすがに辛いと言うので、帰路は水戸からグリーン車に乗りました。)
自己保身で、綺麗事を言いながら実は自分の事しか考えていない。そんな労働組合の幹部たちの姿への私の批判とは、何より「自分はそうしない。」と言う事でした。
人はいざとなった時に本性が出る訳でございます。
「辻川は絶対クビになる!」と誰しもが確信していた訳ですが、どうせ残れないとか「仲間の背信」に嫌気がさしたとかで退職してしまう人たちが大量に出てしまった訳です。
それでJR東日本は定員割れしてしまった訳です。定員割れですから、絶対クビの辻川のクビを切れなくなってしまった。慌てた会社と辻川を恐れる裏切り者の労働組合幹部の差し金で水戸からいわき(旧平駅)への強制配転に始まり23年間に渡る隔離が始まりました。
裁判では争って来ましたが、私は自分の事で争った訳ではありませんでした。私と運命を共にしてくれた仲間たちへの理不尽な扱いが許せなかったのです。
私がその仲間たちより過酷な扱いである事は当然だと思って来ました。それが労働組合の委員長であり、リーダーなんだと言う信念があったのです。
ダメな例をたくさん見て来たからかも知れません。

(常磐線高浜駅を通過したところで筑波山に陽が沈むのが見えました。)
自分自身のラストランもでしたが、ほとんど自分自身の事を振り返った事がありません。
良くないのは、同じ様に仲間たちそれぞれの大事な出来事をしっかり刻み込む事も出来て来なかった事の様に思います。
仲間たちの話を聞きながら、何年何月どこどこで誰ととしっかり刻み込んでいる事にとても驚きます。
記憶の仕方が違う訳です。
でも、私が見えていなかった事、やり過ごして来た大事な事を仲間たちから聞く事ができる訳です。
あ~私は、そんな風にこの仲間たちと生きて来たのか〜って再発見がたくさんある訳です。
「えーっもう時間なの?俺はもっともっと辻川さんと話がしたい。」と言ってくださるほど、楽しい時間は一瞬でございました。
ベトナムと言う国の民衆は、フランス、日本、そして米国の支配ととことん闘い、勝ち抜いて独立を実現しました。
圧倒的に強力な米軍に抵抗して、処刑された人もたくさんおります。
銃殺の瞬間まで、キリッと前を見て生き抜いた青年がおりました。その妻が残した本がありました。
「あの人が生きた様に」
と言う題名です。
もちろん私は、そんなに立派な訳ではありません。むしろ野蛮で無茶苦茶に近い人間だと思います。
いずれ確実に死に忘れ去られるのは、人の運命であります。しかし「あの人が生きた様に」私たちは生きているんだと感じるのであります。あの人とは、どこかの遠い人ではなくあなた自身なのだと、私は思うのです。
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