辻川慎一つくば便り
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先輩バス運転士の誕生日
2月26日と言うと日本が全面戦争に進む大きな要因になった1936年の「2・26事件」の日と言う事になりますが、私の先輩バス運転士は今日で70才を迎えます。
実はこの先輩を知ったのは、今の会社ではありません。もう30年近く経つでしょうか、JRで動労水戸と言う新組合を作った時に、何しろみんな若かったので結婚ラッシュがあり、ベビーブームがありました。
子どもたちと家族みんなで一緒に楽しもうとりんご狩りをやりました。常南交通の労働組合も担当しておりましたので、観光バスを格安で手配して頂き、日帰りバスツアーをやりました。
その時の運転士さんが、今の先輩運転士のNさんでごさいます。
今は亡き、幼い時の私の息子の一人も連れて行きました。
ひと時ではありますが、その時に乗せて頂いた事をずっと記憶しておりました。
(筑西市関城町。梨畑を見ながらよく散歩しました。散歩しながら撮った梨の花の写真です。)
離婚して、JRを離れ、政治党派も辞めて傷心の再出発のバス運転士への道が、筑西市関城町から始まりました。
そこで所長さんをしていたのが、N先輩でございました。
下手くそで、何も分からない大型バスの運転士生活のスタートを、忘れもしないにこやかな人がいてくれた事。
本当に幸運で、心強いだけでなく癒される私がおりました。
(梨の実)
車庫の草刈り作業があると、やった事の無い「刈払い機」の使い方も教えて頂きました。
自家製の焼き芋や揚げ餅を頂いたりもしました。
職場のみなさんと一緒に、休憩時間カラオケにも誘って頂きました。忘れ得ぬ楽しい思い出です。
そして、氷点下8℃にもなる真冬の筑西市の車庫でみなさんが来る前にストーブを焚き、お湯を沸かしておいてくれました。出庫前の介助人さんの水仕事がとても冷たいので、お湯を沸かしておいてくれたのです。
もっとも、何だかそれが当たり前みたいになっている感じもしましたが、新参者の私は「凄い人だな〜」って思っておりました。
そして、不慣れな上に心深く傷を負っていて次々と失敗する私を責める事なく、何度か目をつぶってくれた人でもありました。
長くかかってしまいましたが、何とか一人前のバス運転士になれたのは、こうした先輩方のお陰だと思っております。
そして、今も気に掛けて下さっております。先週、ランチをごちそうして下さったのもその先輩でごさいます。
私がどれほど感謝しているのかは、分からないかも知れません。
とても思い出深く、大切な人です。
70歳の誕生日おめでとうごさいます。
今の70歳は老け込む年ではありませんね。職場にいてくれるだけでも有り難いので、まだまだ宜しくお願い致します。
(筑西市で働いていた時に作って頂いたお弁当です。)
そして、罰当たりな私が忘れてはいけない事。
困難な日々に、毎日毎日お弁当を作ってくれて、忘れたら遠路JR水戸線の川島訳まで届けに来てくれた妻でごさいます。
先輩は「ステキな弁当箱だね!」とよく言って下さいました。
私一人でやれて来れた訳ではありませんね。
自分だけでやってきたみたいな生意気になりかける自分を反省しながら、今日も夜乗務に出発します。
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2025/02/26 16:07
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悠久の時間
60代になって、落ち込む事の連続と言う感じです。
勢いでやって来たつけがドーッと来ているのかも知れません。
私よりも力任せに生きていた人たちは、どんどん亡くなってしまいましたが、私にもしっかり来ている様に思います。
もっと気楽に生きられたら良いと思うのですが。やはり難しい時代なのかも知れません。
五木寛之さんがインドを訪ねた記録的著書を読みはじめました。
ブッダのルーツを訪ねたのです。
めちゃくちゃ時間感覚が違い、日本からするとルーズのレベルを超えているのですが、そこに悠久の時間が流れていて慣れて来ると解放感があると言います。
私も東南アジアの国に行った事があり、インドほどでは無いかも知れませんが時間の流れの違いに解放感を感じたのは同じでした。
ちょっと昔の沖縄でも、時間感覚がゆったりしておりました。
そう言う世界に生きている人からすれば、秒単位でギスギス動くなんて「クレイジー」なんですね。
そして、今やIT大国と言われるインドですが、都会を離れるとそのまま数千年変わらない姿があると言います。
東京と関東、東北の違いなんて言うレベルでは無い想像を絶する地方の生活がインドの大半で、話される言葉も10種類以上ある。方言でなく言葉が違うらしいです。
地方に行くと電気も無く、当然街灯なんてものは無いので真っ暗。何も見えない中を人々が動いている。
五木さんの感想が面白い。
「真っ黒であっても、動いている人たちには見えている。人間は自分の能力の大半を使っていない事が分かった。」とそんな感想を述べています。
なるほど〜と思う事があります。夜のラッシュアワーを走る様になった当初は、対向車のライトが眩しかったり暗い道を走ったりと良く見えないので、めちゃくちゃ目が疲れました。雨の日なんか最悪で、油膜や道路の水の反射で恐ろしく見えなくなります。
一体どうすれば?と嫌がられても徐行
してきた訳ですが、回数を重ねて行くと見えて来るんですね。
どうやら年のせいで見えないのではなく、自分の能力がまたまだ使い切れていないと言う事だった様に思っていたところでした。
つまり不便で大変なところでは、人間の使われていない能力を使う事で対応すると言う事なんですね。
そんなチョー不便で、チョー時間の流れがゆったりしたところでブッダが悠久の教えの悟りを開いたと言う事です。
人間の能力全開だったのかも知れません。
私たちは、今置かれている世界を前提にして、あくせく懸命に生きている訳ですが、世界はそれだけではない訳です。
私には現実性が無い、頭の世界で生きていると言う人もおります。
だから、今の現実には通用しない。なので失敗ばかりで格好悪い。人の気持ちが分からず、常識も無いので恥知らずなんです。でも現実って、住んでいるところ、生きて来たところで違うのだと思います。
本当はみんな時間軸が違っていたのを、資本主義化する時に無理やり合わせた訳です。そうしないと合理的な生産も戦争もできないから。
不合理な人は、必要ない。
そう言う淘汰のされ方をして来たのだと思います。
どうにも、私はそんな不合理で、資本主義的生産に合わない人たちに仲間だと思われる事が多かった。
理屈を語りながら、理屈に合わない生き方をしてきたのですね。
ヤクザも生きづらくなりました。
本当は、私も生きづらいのを仲間たちがフォローしてくれて気づかなかったのかも知れません。
やはり私は、きっちりとした正統派にはなれなかったのだと思ったりします。
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2025/02/25 16:21
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心の旅
3月になったら、辛い氷点下の朝から解放されそうです。しっかり辛い時を感じるから、有り難さもしっかり感じられる様に思います。
長年信じて来た組織の人たちに手のひら返しを受けて、人間不信状態にあった私を救ってくれたのは長年の仲間たちでございました。
「賭けて来た全てを失った」と勝手に思い、仲間たちの顔も見れなくなっておりました。もう労働組合でも、組織でも幹部ではない。だから全てを失った。そんな気持ちだった様に思います。
そんな私に寄り添ってくれた人に背中を押してもらい、仲間のところを改めて訪ねた時がありました。
動労水戸の木村委員長に会いに行ったのですが、写真で「運転士を発令せよ!」と言う横断幕を掲げている仲間を、偶然常陸大子の駅前で見かけました。声をかけるべきかどうか迷う私。でも、思い切って話しかける事にしました。
そうしましたら「私は辻川さんと一緒に闘って来ました!」と胸を張って言ってくれたのです。
自信を失っていた私には、想定外の言葉でした。そんな風に思っていてくれたんだと、冷えていた心が熱くなりました。
その彼は、今も不屈に頑張って職場環境を変え続けていると聞きます。その事にまた熱をもらっています。
私自身が、仲間たちに不屈の熱を伝え続けていたのかも知れません。
過去の「栄光」を懐かしむために振り返る訳ではありません。
自分が何者であったのか、そして今とこれからをどう生きるべきなのか?
そのための振り返りだと思っています。
こんな記事もありました。
「仲間とは、共通の目標や価値観を共有し、支え合うことができる人々のことを指します。心を合わせて何かをいっしょにするという間柄をかなりの期間にわたって保っている人。そういう間柄。」
と言う解説もありました。
では、私たちの共通の価値観とは何だったのでしょうか?
組織のためでは無かった。人を人として尊重しない事との闘いだったのだと思います。だから、仲間への不当な仕打ちを許さなかった。
いざと言う時には、来てくれると言う期待よりも、私が必ず行く。それをやり続けた結果だったのだと改めて思います。
直接の結果が上手く行った事ばかりではありません。ほとんどは、上手く行きませんでした。しかし、いざとなったら駆けつけて、仲間のために闘う人がいる。それが何よりの生きる励みになり力になったんだ。
そして今、その仲間たちから力をもらい続けている。
その姿を、遠くから見続けてくれた仲間もいる。
それをしみじみと実感する日々です。
家族と言うのも、あまり近過ぎると分からなくなってしまうのですが、本当は一番身近な仲間なんだと思う様になって来ました。
やってもらうと言う期待でなく、自分に何ができるのか?
人生には、表には見えない心の旅がある様に思います。それは感じる事でしか分からない永遠の旅なのかも知れないと思いはじめています。
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2025/02/24 07:07
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とんがってたねー。
3月22日に泊めて欲しいと伝えたはず
でしたが「今日来るんだろう?お刺身買って来たよ。」と突然母から電話がありました。え~っと驚いたのですが、急きょ実家に行く事になりました。
父と母の苦労や歴史、そして私が育った家でもあります。
本が好きで、勉強も嫌いでは無かった学生時代に夢中に過ごした私の部屋。
そこにも両親の人生と私への思いがつまっております。
置きっぱなしだった本もCDもたくさん処分したのですが、まだ残っている本をめくっていましたら1枚の写真がはさまっておりました。
30才頃だと思います。国鉄分割民営化に反対して仲間たちと一緒に新しい労働組合を立ち上げ、原発や戦争政策にも反対する行動にも参加しておりました。
静かなのが好きで、自然に触れながら歩くのが好きな私なんですが、とんがってたんだな〜って思います。
こんな冊子もありました。
私だけでなく、みんなしてとんがっていたんですね。
とんがるだけでなく、遊んでもおりました。
青春!って感じが致します。
かなり異色な青春かも知れませんが、それも一つの歴史であり、時代を生きた証なんですね。
歴史は、文章化すると一区切りして終わる。それを見て来た人生でもありました。
来年11月になると動労水戸と言うJRの労働組合は、結成から40年になります。30年までは、私が総括文章を出しましたが、それ以降は後輩たちが踏ん張って来た歴史なので後輩たちが描く総括になります。
ちゃんと締めが出来ないと、いつまでも終われない。せっかくの歴史の後味が悪くなってしまう。何事でも同じかと思います。
光陰矢の如しですね。私が29才の時に結成されましたので、来年は私は69才と言う事になります。みんなで良く頑張って来たなとも思いながら、私自身ももう一区切りの締めなかも知れないと思っております。
CDが出る前は、レコードやFMからカセットテープに録音して車で聞いておりました。カセットテープもずいぶん処分しましたが、残っておりました。
音質は良くないのですが、これも若い頃の私の世界の一つでした。懐かしい思い出があるものです。他の人にはつまらないもの、役に立たないものでも人それぞれに大切な思い出があるものがありますね。
あまり多すぎると自分でも何だか分からなくなったり、他の人の迷惑になってしまいますが。
来月90才になる父と今月85才になる両親の生き甲斐は私がいる事。そして、私が訪ねる時を楽しみにしてくれています。
ずいぶんとぶつかり、仲たがいしながらの夫婦の歴史でもあったのですが、息子を大切に思う気持ちや愛は深く共通していたのですね。私は、それを感じながら育った。
とんがりながらも、色んな人に可愛がられ、慕われて来たのはこの両親の思いを受けて来たからなのだと今さらながらに思います。
二人にとっては、鎹(かすがい)として私はあり続けている訳です。
ずいぶんと心配ばかりかけて来て、今も心配させております。
親不孝したい時には親は無しにならない様に、何ができるのかを考えなければなりません。実行できるのは今しかありませんので。
優先順位を今度こそ間違わない様にしなければならないと思います。
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2025/02/23 06:34
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Dreamer(夢想家)
みなさまお疲れ様です。
昨晩の金曜渋滞はかなり酷く、3時間ほぼ運転しっぱなしでした。何とか無事に終えるとフラフラしました。
でも、良い事もあります。乗客のみなさんも1週間が終わりホッとするのか「ありがとうございました。」と言って笑顔で降りて行かれる人が多いのです。そして忘れものも多いのです。早く帰りたいんですね。困るのですが、気持ちは分かる様な気がします。お返しできるのは、来週火曜日になってしまいますが。
それから、当たり前の事ですがベトナム人の若者たちも同じです。日本語が分かるので、いつも私を助けて通訳してくれる女性も、渋滞でなかなか進めない中「混んでいますね。」と話しかけてくれるので「休日は何をしますか?」などと私も返します。「年はいくつですか?」と聞かれて「67才ですよ。」と言うと「信じられない。もっと若いと思ってました。」なんて嬉しい事を言ってくれたりします。
そんな事があると、酷い渋滞もあっという間に感じるのが不思議です。
あーそうか、辛く感じているから人とのつながりを求めてあいさつしたり、語りかけたりして楽になろうとしてるのかも知れませんね。
(3月15日のダイヤ改正で廃止される抜海駅。北海道にある日本最北端の木造駅舎との事です。)
そんな日々の中、JRの後輩から「JR北海道が税金の補助をもらいながら酷すぎる。宗谷本線の運用本数を減らしながら、貴重な駅を廃止し続けている。」と怒り、私のブログに取り上げて欲しいとの要望がございました。
JRを離れて早7年。現状については仲間たちに聞かないと分からない状況です。なので、難題なのでございます。
ただ、酷い結果になる事は予想してはおりました。
昔、国鉄バスも全国を走っていたのですが、採算の合わない赤字路線は国鉄バス。採算が合う路線は民間会社と言われておりました。
採算が合わない路線でも国民の足を確保するために、公営の鉄道やバスが維持されていたのです。
それを採算重視の「民営化」にしたのですから、赤字路線は鉄道でもバスでも次々と廃止される事になった訳です。
北海道の場合、炭鉱と鉄道の街が多かったのです。だから、炭鉱と鉄道が無くなれば仕事そのものが無くなってしまいました。若者は離れ、高齢者だけが残される。
頼みの観光も、一時のブームが去り日本全体が高齢化しているのですから観光に行く人自体が減る。そして今や外国人ばかりになっているのが現状なのだと思います。
鉄道もバスも無くなるとマイカー頼み。車が運転出来ない高齢者は結局置き去りになるか、居られなくなり廃墟になって行くしかなくなるのです。
鉄道オタクでもある石破総理のキャッチフレーズは「楽しい日本」との事ですが、誰に取って楽しい日本なのか?よ〜く考えないといけない時が来ていると思います。
(青森の大間崎からは、北海道の函館が見えます。大間原発が稼働して事故が発生すれば、函館にも影響が及ぶので反対している人たちが北海道にもおります。)
人が減り産業が無い北海道に、使用済み核燃料の最終処分場を作ろうと言う計画も進んでいます。
過疎の地方に原発施設をって言う安易な国家政策が続いて来ました。
国民の税金で進められる国家政策は、本当は国民のために考えられなければなりませんね。
今米や野菜が値上がりしていますが、国民に取って一番大切な問題は安全な食べものが保証される事の様に思います。しかし、日本の食料自給率は先進国最低レベルで外国、特にアメリカ頼みになっていますね。
アメリカに盾を突いたら大変なのは、安全保証だけでなく、食料問題にもある構造になっています。
つまり国民の事を考えるならば、食料問題を真剣に考えて、国家政策として進めないといけない。観光だけでなく根幹部分を外国頼みにしていて、一体未来があるの?と言う大変な問題があると思います。
そう考えると北海道と言う地は、とても大事なところにならないでしょうか?
安全な食料を自前で確保していく国家戦略の要にはならないでしょうか?
今若者たちの中で農業を見直し、働く人が増えていると言う事も聞きます。
自分の人生をかけるに値する仕事があれば、働きたいと言う若者たちもいるのです。
働く場がなければ、人は来ないし定着もしない。人が働か無ければ、国が豊かになる事もありません。
日本の繁栄は、国民が働いて来た結果である事は、中小企業で働く様になった私の実感でもあります。
つまり北海道に原発を!ではなく北海道に第一次産業を!国家政策として真剣に進めるべきでは無いかと思います。
一時的で取り返しがつかない破綻的政策でなく、これからの世代のために100年200年を見据えた政策が必要なんじゃないかなと思います。
一労働者のたわごとかも知れませんが、仲間たちと一緒に国鉄分割民営化と真正面からぶつかって来た私の意見でございます。
(スエーデン出身のヘビメタ系ロックバンドの「ヨーロッパ」。1984年に出された曲の「Dreamer」が好きでした。川岸を下りながら星の数を数える孤独な夢想家を歌っておりました。国鉄分割民営化政策との闘いの渦中だったと改めて思い出します。)
https://youtu.be/WsHX_2mM3JE?si=SvOZqjcCrnwKWXY6
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2025/02/22 06:58
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