春の訪れ
みなさま。汗ばむくらい暖かな土曜日になりました。
今日は、私が半年間担当したバスルートのラストランでございます。
ただ土曜日に出勤する人は少ないので、乗ってくれた人たちのラストランは昨日でございました。
遅刻ギリギリで途中で乗せたことのある青年は「お世話になりました。」とちゃんと言ってくれました。
夜勤専門の女性労働者は、私のバスが無いと1時間半かかるので「とても助かりました。ありがとうございました。」と言ってくれました。
他方、どうせ最後だとゴミを置いていく格好悪いオヤジもいる。
やはりそう言う場面で、人の本性が見えてしまいます。ただ人を利用の対象としか見ていない人。口先だけ綺麗な人。そして、多少の縁ではあっても感謝を感謝として伝えられる人。
まあ、自分の人としての学びの場でもあります。

(わが家のウメの木の若葉が出て来ました。)
私の前任者は「ウインウインになれば良い」と相手に合わせる様にして、実は自分がやりやすい事をやっている人でした。
ウインウインと言うのはビジネス用語らしいですが、利用し合って得になれば良いと言う考え方なんですね。
ところでその方は、バスの掃除もしていなかった。ガソリンスタンドの人とも親しげにしていたのですが「担当者が変わるとこんなに綺麗になるのですね。」と私に言うのです。
つまり、表面上は親しげでも決して良くは思われていなかった訳です。
土台、自分の会社でも無いのに勝手にウインウインなんて成り立つはずがありません。
自分の都合良い様に人も会社も利用すなんて、できるはずがありません。
結局居られなくなる。そして、その通りになりました。
本当に人のためにと言う事は、リスクがあろうとやり抜く強い意志と行動があって成り立つのだと思います。
そんなに簡単な事でも、安易な事でも無い。
この人は、自分にリスクがあろうとも誰かのために本気でやっていると感じる時に、人の心が動く。

(ドウダンツツジの花も咲き出しました。)
人としての本当の得って、そこにあるんじゃないかな?
世のため人のためなんて言いながら、人を踏み台にして、実は自分の事しか考えていない。
そんなヤツばっかりが目立つから、つまらない世の中になっている様に思います。
無残な世の中に思えますが、無残は無惨とも書くそうです。
実は、無惨は元々仏教用語。戒律を犯しながら、罪を恥じないのを無惨と言う。ところがそれは天晴(あっぱれ)な生き方だと言うのです。
戒律や罪が問題なのではない、それすら怯まないのが無惨であり、あっぱれだと言う訳です。
仏教と言うのは誠に奥が深い様に思います。
何事も言う事もやる事も半端にするのは、無惨にもならない。
ただただ孤立していくのみ。
そう言う例を、私たちは日々見ているのかも知れません。
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