辻川慎一つくば便り

一つ山越えまた一つ

何が嫌になるって、長年仲間だと思って来た人の性根が見えてしまうこと。

でもそれって、じゃあ自分はどうだったの?って自分に聞かないと行けないよね。

人生にはこれでもかって言う試練が来ます。

私の場合60才になってから、自分のそれまでの全てがひっくり返る様な試練が来ました。

でもね。それは自分がどんな風に生きて来たのか?のツケみたいなもの。

誰しもが折れそうになることがある。

その時に、心から支えてくれる人がいるかどうかで、その後が決まる様に思う。

だから、大事なことは自分の打撃でなく、大切な人の打撃を思い、労れること。

つまり、やっぱり自分に取って本当大切な人がいるかどうかだと思う。


(妻がつくば市「研究学園」で撮った筑波山です。)


それは、誰かを「世話した」とか「守った」とかとは違う。それは、世話した自分の方を強調したいからだ。

つまり、本当に大切なのは自分なんだ。そうすると、相手の自立力を奪い、何でも人のせいにする人間になってしまう。

私は、人を支配するつもりは無かったけれど私が「守った」人たちは、結局私が悪いと言い続けている。

それで?実は何も無い。


それも良い勉強です。
土台世話するとか、守ってあげるなんて言葉自体がおかしい。

良く支援すると言うけど、支援ってその人自身の力でやっていけるための行為であり、相手を支配することではない。



介護の世界でも、政治でも、支援を支配に履き違えてはいないでしょうか?


自分たち無しには生きられない様に支配するのは、野蛮な時代と変わらない。

自分が居なくなっても生きられる様に、その人の力を活かし引き出して行く。

支配は野蛮であり、支援とは人間の本質的あり方をめぐる闘いだと思います。

呆れた混同があちこちにありませんか?

寝たきりにさせない、されない。
みんなで早めに目覚めませんか?


(妻作パスタを頂きながら、仲間たちのメールを見ていたら「怖い顔になっているよ!」と言われました。)

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