辻川慎一つくば便り

なごり(名残り)梅

梅の時期も過ぎればあっという間ですね。



名残りを惜しむ様に、妻が梅の花を水に浮かべておりました。


梅は、中国から来た木で別名「好文木」。学問の木とされてもおります。

水戸の偕楽園の梅は、学問を大切にしてきた水戸徳川家を象徴している訳です。

ところで、東京には後楽園があります。こちらは遊園地や球場があるので有名でございますが、元々は水戸藩の江戸藩邸の庭園だったってご存知でしたか?

後楽園と言う名を付けたのは、これまた有名な水戸光圀。つまり水戸黄門なのでございます。

全国を旅して悪を懲らしめたと言うのは全くのフィクションで、2代目藩主だった時代の58年間くらいはこの藩邸にいたとの事ですので江戸(東京)の人だった訳です。

その黄門さまが、中国から亡命してきた学者の朱舜水(しゅしゅんすい)を食客に迎え大事にした。その人の意見を取り入れ、「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から後楽園(岡山の後楽園に対して小石川後楽園)と名づけたと言う事です。



そして、それから9代目の藩主徳川斉昭が作らせたのが偕楽園。


後楽園は、上に立つ者は民の後に楽しむものだと言う考え。偕楽園はと言うと民と共にみんなで楽しむと言うコンセプトで付けられた。

うーん。どちらも立派な考え方だと思うのですが、斉昭さんの方が進んでいた感じがしませんか?

斉昭さんは自らも学問を大事にして弘道館と言う学校を建てたり、偕楽園に梅を植えたりしたのですが、同時に黄門さまが「大日本史」編纂と言う学問の巨大事業をやった結果苦しくなった水戸藩の財政を立て直した名君であったとの事。

「水戸藩に学べ!」と言う事で、全国の藩主たちが藩士を水戸に送った。

水戸学と言われた「尊皇攘夷」の原点みたいな学問を学んだ人たちが、明治維新の中心になって行ったと言う次第。

それなのに、水戸藩では天狗派と諸生派に分かれて血なまぐさい激突をする。

その恨みが維新後にまで残った。

そんな歴史があって、水戸っぽは「短気で、怒りやすい。と言われおりました。



しかし、どうも現実は違う。


富山県生まれで、親と全国を回った私の方が「激しい」と水戸っぽの人たちにも言われておりました。

動労水戸と言う労働組合の組合員は、実は水戸より仕事が少ない福島出身の人が多いのですが、水戸近隣出身の人たちが激しいかと言うと気遣いの人が多く、前には出たがらないのでございます。

どうも、風評と現実は違うのでございます。

地元に根を張っている人であれば、あまり目立ちたくはない。おかしな事もできない。

ある意味では、流れ者一家の息子だったから思い切りやれた面がある様にも思いますし、地元で無かったからこそ水戸の歴史なんかも勉強したりして来たのかも知れません。

勉強と言っても雑学レベルではございますが。

歴史は、過去に詳しくなる事でなく今をどう生きるかと言う問題と切り離せない様に思います。

水戸で闘い生きた事で、水戸が好きだった私ですが、そこから離れて筑波まで来てしました。

こちらは、山林を切り開いた人工的で近代的な街と超田舎が隣接しております。

常磐線沿線だと茨城県民と言うか、東京のベッドタウン。

そう言えば、常磐線が酒飲み路線と言われた時代に、質が悪いと言われたのは土浦以南の乗客でございました。茨城以外の出身者なのでございます。

つながりが無ければ、周りは関係ない。

そこは、つながりの無い古い家と廃屋ばかりが目立つ様になっております。

経済成長に勢いがあったので、そんな末路を考え無かったのでしょうね。

その現実から、学ば無いと後悔しても手遅れになる様に思います。

梅の花を名残りながら、思います。

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