辻川慎一つくば便り

「君子之交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し)

みなさま。
一週間、お疲れ様でした。

私の方も、無事に日本人、外国人の労働者として仲間のみなさまを無事にお送りして一週間の乗務を終えました。

運転席からではありますが、バスを降りる人たち一人一人にお辞儀をしながら「お気をつけて(お帰りください)」と声をかけますと「ありがとうございました。」と返してくださるのがとても嬉しい瞬間でございます。

とにかく無事に、快適にお送りする事に集中しますので、最後まで気持ち良くお送りしたい。

相手ではなく、自分の思いでありますので実は勝手極まりないのかも知れません。

なので無言で降りる人も数人おりますが、腹を立てるなんて言う事もありません。

以前特別支援学校のスクールバスを運転していた時に、言葉で自分の気持ちを伝えられない子の機嫌が悪く、大きな声を出したり、自傷的行為をする子がいると、別の子に「きっとお腹がすいているんだよ。」って教えてもらった事を思い出します。

言葉にはできないけど、それぞれに感情や気持ちがあるのです。だって人間ですから。

大人の方が、子供よりも難しいかも知れません。

でも共通するのは、ちゃんと見てくれて、笑顔で優しく声をかけられたら嬉しい。思われたら嬉しい。

1日中無機質な仕事を毎日していたら、笑顔も忘れてしまいますよね?

だから、私の闘いの武器は笑顔とできるだけ丁寧なあいさつ。何より丁寧で安全な運転と言う訳です。

これは私の無機質な管理監視社会との基本バトルなのでございます。



一週間の闘いを終えて、休日の今日はちょっと遠方から友人が来てくれました。

美味しい常陸秋蕎麦のお店に行きましたら残念ながら「臨時休業」。急きょ龍ケ崎駅近くにある「新富食堂」でランチをする事になりました。

相変わらず昭和の香りがする優しい料理を堪能しながら、近況などを聞かせて頂きました。

知らない生情報をたくさん聞けますし、楽しいひと時でございます。

たくさんのお土産も頂きました。



私へのお土産は「ブログにありましたので」とバスの前面窓用のスプレー3本!でございました。

わざわざホームセンターで買って来てくれたとの事です。

こちらも私の大事な武器でございますので、とても嬉しく頂きました。

友人を迎えながら
「君子之交淡如水」と言う中国のことわざを思い出しました。

ある賢者が、「君子の交わりは淡きこと水のごとく、小人の交わりは甘きこと 醴 あまざけ のごとしと言った。

君子は水のようにさっぱりした付き合いをするが、そうでない人物は、甘酒のようなうまみを求めてしか付き合わない。つまり利益で結びついた関係は信頼がおけないと言う意味なんですね。

君子と言うのは、完成された人と言う事ではなく、義を欠かさない様に努力する人。

努力し続ける人が本当の君子と言う訳です。

何をやっても完璧になどできない。失敗するし、抜けるし、危うい。だからこそ、努力し続けるしかない私なのですが、努力を投げ出さない人との交わりは水の様に淡いからこそ長い交わりになる。

甘酒を求めて群れを組み、感情をぶつけ合い、結局孤独でしかない交わりへの戒めは、中国の古い時代とも変わらないのだと思ったりします。



人への情と言うのも、本当は「あなたと一緒に死んでも良い」と本気であっさり言えるくらいでないと情足り得ないんですね。

利害関係の中にある「情」と言うのも浅はかなのだと思います。

人が心を揺り動かされて、動くと言うのはそんな程度の中には生まれない。

常に自分の本気さが問われているのに、利害関係からこの程度で良いとするところに甘さと堕落が横行し、それを理由にして自分も「こんな程度で良い。みんなを見ろよ!」って言い訳も横行する。

子どもたちの夢や希望は、大人が一緒に実現しよう!って立場でなく「そんなの無理」と決めつけてないのか?

夢や希望を失った大人が、子どもたちの夢や希望を奪っていないのでしょうか?

生きているのが楽しくない母親は、ちゃんと子育てができないそうです。

愛は記憶だから、誰かに愛された記憶が無い人は子どもに伝える愛が無いのは当たり前なんですね。

愛は商品では買えない。人と人の交わりの中にしか無いから。

愛もお金で買える?お金で買えないものは無い?

その愛は、あの世にまで持って行ける愛なんですか?人に伝わり残る愛なんでしょうか?

努力が欠かせない私は、はたと考えてしまいます。

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