辻川慎一つくば便り
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元闘志の今
何だか久しぶりーと言う感じで今日は「指導」から解放されて、一人バス運転士です。
やっぱり自分で運転する方が、気楽な感じが致します。でも「辻川さんに教えて頂いたのが一番長いので『師弟関係』ですね!」って言ってくれる隊長だった元自衛官さんの天真爛漫さを可愛い人だななんて思って来ましたので、いないと寂しい感じも致します。
人の気持ちってわがままなんですね。
ブログ読者の「心の友」さんが送ってくれました。つくば市高崎自然の森公園の桜との事です。良い色をして美しいですね。
今朝出勤すると添乗員の女性から「辻川さん、八重桜が咲き出しましたよ!二輪三輪ですが。」と話しかけてくれました。「うわ~、早いですね〜。」と一緒に喜んだのですが…良く考えて見ると「どうして私に?」って思いました。
私にそんな話しをしたら一緒に喜んでくれるって思うからですよね。つまり、そんな風に私を見ていてくれる。
その方がもっと嬉しい私がおりました。
その人は、早く離婚されてやんちゃな息子を働きながら育て上げ、ずっとお母さんのお世話をされております。いつも「病院に連れていかないと」とか「食事を作らないと」とか言われて休憩時間になると駆け足で一時帰宅されます。「夜もろくに眠れない。昨日は2時間でした。」と言いながら、疲れた顔でも笑顔を絶やさず、仕事もきっちりされている人です。「親は良いけれど私の老後は誰が見るの?って感じ。」と笑います。
私は、ずっと尊敬しながら見て来ました。
その人が「桜満開ですね!」とか「八重桜が咲き出しました!」とか言ってくれるのです。じっと見ている時間も無いと思いますが、そんなわずかな事に喜びを見つけて、私なら一緒に喜んでくれるはずだって語りかけてくれるのです。
不思議ですよね。
(高崎自然の森公園には、こんな青ち鳥もいる事を教えて頂きました。ルリビタキです。「どんなに整美された東京の公園だろうとルリビタキはいません。」との事。そう茨城には茨城の良さがあるのですね。)
かつては労働運動や革命運動の闘志だと自分では思っていたのですが、どうも素の私に人が感じるのは違う様でございます。
自分で自分を誤解するって言う事があるのですね。
私をその様な闘志であり、幹部だと思って来た人はみんないなくなりました。
素の私を信頼してくれる人だけが残り、新たなステキな出会いがあるのです。
高齢で、下手くそで、地を這う様にしてなったバス運転士ですが、自分の仕事を見つけて続けて来て良かったと思います。
職業ではなく自分の仕事を見つけた。
そして「弟子」と言ってくれる人までできたのですから。
たぶん、以前とは全然違う私がいて、だんだんと近づいてくれている人がいるのです。
さて「高齢者と言う階級がいる。」と言う五木寛之さん。孤独死か連帯か。私の新たな階級闘争の現実を生きているのかな〜なんて思います。
さて、つくば市内に新たにオープンした「ベルク」ショッピングモールで、さらにゲロ込みの中の金曜渋滞に挑んで参ります。
では、行って来ます。
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2025/04/11 16:03
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見えないものでもある。
桜並木の中を走るスクールバスの中で、シルバー人材で添乗員をされている70代の女性が「四季があるって素晴らしいですよね。」と話しました。「そうですね。ベトナムから来て日本で働く事になった人が、ベトナムには桜が無いと桜を見るのを楽しみにしていました。」「それから、日本に来て道を譲りあって手を上げたり、お辞儀をする事に驚くのです。ベトナムだったらケンカになるって言うのですよ。と言います。」と返しましたら「みんなではありませんが、四季折々の移ろいに感謝しながら生きて来た日本人の良いところですね。」と言います。そして「先の事に不安を感じてくよくよ悩んでも良くはならないので、今を精一杯楽しむ様にしています。」とお話しされました。故郷の福島のお墓参りに、自分で運転されて行くとの事で「凄いですね」と言うと「景色の良いところや楽しい道の駅もあるので、休み休み行くのです。」と言います。私も知っているところでしたので、短い間ではありましたが楽しくお話しをしました。
何気ないやり取りではありますが、色んなご苦労や悲しみもあって、先がどこまであるか分からない。だからこそ、働きながら四季の移ろいに感謝しながら一つ一つを大切にされて生きておられるのだなって、しみじみ思いました。
(JR北海道の宗谷本線)
JRの後輩から、北海道の宗谷本線で脱線事故があったとの知らせがありました。
ネットでは、宗谷本線で貴重な駅が次々と廃止されていて、年間50億円の赤字線で一駅廃止しても100万円の節約にしかならないとありました。
数字で見れば、どうにもならない感じがします。そこでの脱線事故ですから、さらに経費がかかる訳で終わってるよなって感じがします。
そんな赤字線を維持する必要は無いと、数字だけなら思います。そして、国民の多くには無関係な事です。
そんな記事やニュースを見る度に感じる事ですが、そこで働いている人や生活している人の姿が見えないのです。
生きている人の姿が見えない数字や写真だと話題にもならないし、まして共感なんてしょうが無い様に思うのです。
人の姿や思いが見えるから、共感が生まれるのですから。共感の無いところに物事の解決の道も出て来ないと私は思います。
美しい桜並木も、自然にそうなっている訳ではありませんね。美しくしようと働いている人がいるから美しいのです。
そうやって次の世代に残して行こうと働いている人がいる町や村は綺麗なんですね。それが公共と言う事の根本にあるのだと思います。
私のJR時代からの仲間からは、こんな新聞記事が送られて来ました。
福島第一原発の側を通る常磐線の乗務員が、自ら調べた放射線被曝線量を発表して「見えなくても放射線はある」と問題にしていると言う記事です。
旅客の安全を守り、日々働いている人たちからの告発は、私の胸を打ちます。
できれは、彼らの日常も追ってもらえれば、さらに共感を生む様に思います。
ただの記事や報道は、過ぎ去るだけですが、働く人々の姿とその声は、自分と同じだと言う共感と記憶になると思うからです。
数字だけからは見えない働く人間の姿が見えて来る時、自分とは無関係な事にはならなくなる。
そこにしか、本当の出口は無いと思うのです。
(色々あって気が向かなかった庭の手入れを始めました。小湊鉄道の沿線から記念に移植した「ツルニチニチソウ」の花が咲き出しました。)
人の社会は、人が働く事で成り立っています。働くと言うのは会社勤めだけではありません。少子高齢化で空前の人手不足と言いながら、相変わらず人が見えない数値頼みからは見えないのが、働くと言う事の意味であり大切さの様に思います。
そして人々は、日々心を働かせて花を咲かせ様としているのだと思います。
その心の働きも、見ようとしなければ見えないものなんですね。
見えないものでもあるのです。
私のブログに共感してくれる人と言うのは、それを探し、見つけてくれた人なのかなって思ったりします。
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2025/04/10 12:26
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入学おめでとう!
新人運転士の添乗指導が月曜日、火曜日と続きました。脇にただ乗っているだけに見えるかも知れませんが、とんでもありませんね。運転を見ながら、感じながら、運転以外に必要な作業もチェックし、道路も当然見ます。特に交差点です。それから停車場も。
不思議な事に、まさか大丈夫だろうと油断すると道を間違えたり、停留所を行き過ぎたりするのです。一瞬も気が抜けません。
運転日報の記入も指導して、終わったら全てチェックします。そして、車庫でバスを離れる際にももう一度点検させてもらいます。なぜなら、指導運転士の私に最終責任があるからです。
自分で運転していた方が気が楽なくらい疲れます。
疲れ切ると気持ちが沈んで来て、もう無理かな〜なんて思ったりします。
運転は大した事無いし、指導のキャリアなんて無いのですから。
それでも自分の仕事を見直す事ができたり、私に教えた人たちの大変さが分かったりと人として、運転士としての成長は感じます。
(朝3時半。外に出ましたら赤い月でした。水平線に近くなると大気で青い光が拡散して赤く見えるそうですが、凄い月を見て一日が始まりました。)
会社に出勤して、今日の業務指示書を見てびっくり。小学校送迎なので午前、午後の乗務だと思ってましたら、午前中のうちに送迎する事になっておりました。
あ~今日は入学式なんだ!
回送で学校に向かい、学校から子どもたちが待つ停留所へ。いやぁ、満開の桜並木が晴れの天気で何て綺麗な事でしょう!
添乗員さんと「今日の入学式は最高ですね。良い思い出になりますね。」と喜び合いました。
幼い頃は福島の山間で育ったと言う添乗員さんは「山桜は、花と葉が一緒に出るのですよ」って教えてくれました。なるほど〜。ちょっと見分けが付くようになりました。
満開の桜並木の中を運転すると言うチョー贅沢をしながら、無事に学校に着きました。
(校門で新入生を出迎えた桜です。)
学校の運動場にあるトイレを借りて出て来ましたら、新入生のご両親たちとすれ違いました。お祝いの気持ちを込めて笑顔で「おはようございます」とあいさつしましたら、外国人のご夫婦から「駐車場はあそこで大丈夫ですか?体育館はどこですか?」と聞かれてしまいました。う〜学校関係者ではありませんので全く分からない。
一緒に先生がいないか探すしかありません。で、何とか引き継いでバスの回送発車時間に間に合った次第でございます。
いやぁ、聞かれるのは嬉しいのですが、困る事がありますよね。
そう言えば、外国人実習生を成田空港に出迎える仕事をしていた時に、聞きやすいのかわかりませんが、外国人からバス乗り場や鉄道の乗り場等を聞かれて困った事を思い出します。
空港が良く分からないばかりか、話される英語が聞き取れないので聞かれている事が分からないのです。土台難聴気味で日本語もよく聞き取れないのでございます。
しかし、困っているから聞かれる訳で相手を見ながら一生懸命聞いていると何となく分かったりします。
で、案内を見ながら「ゴー・ジス・ウェイ」。どうしても分からない時は案内所まて連れて行く。
だんだんと対処の仕方が分かって来るのですね。
これぞ大和魂!日本人の心。
なんて、大した事ではありませんが。
(こちらは土浦市の乙戸公園の桜です。逆光ですみません。平日でもたくさんの人が来ていましたが、なかなか見事です。鴨が水面の桜の花を食べているのを発見しました。)
どんな事にも完全とか完璧なんて事はありませんよね。
そんな事より、困った時はお互い様で助けられる他の人につなげる事だって立派な「通訳」の様に思ったりします。
分かっているんだと、相手の状況や心が分からない通訳だと結局何言ってんだか分かんね〜って事になるとか。
心が無い言葉って通じないだけじゃなく争いの元になるのだと思います。
だから笑顔で、相手を見ながらなんとかかんとか。悲しそうなら、黙って話しを聞いて肩を撫でたり、手を握ったりする。言葉は、心の後から付いてくる。心より先にある言葉は、本当は通じていないし軽くてウソっぽい。しどろもどろに吐き出される言葉の方に、心の真実の力を感じたりする。
気持ちは自分の気持ち。心は相手を思う心。自分の気持ちじゃなくて心が、人種も、国境も、世代も、あらゆる垣根を超える人の世界の様に思います。
心は、空より広いってさだまさしさんの「ハッピーバースデー」て言う歌にありましたが、そう言う意味なんですね。
https://youtu.be/AcjwQcJfq9I?si=TyrYFnySDH9llfpH
どの子も入学おめでとうございます
。
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2025/04/09 15:25
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奇跡の春
週明けの昨日、今日と自衛隊出身の「新人」運転士の添乗指導担当です。
大型軍用トラックを運転された事があり、運転は出来るのですが人を乗せて安全快適に走ると言う事との違いを具体的に指摘して理解して頂いたりして来ました。
勝手が違う上に、道を覚えて頂きながらやる事が運転以外に多くあります。なのでどうしても抜けてしまう事があります。でも、間もなく一人でやる事になりますので「まあ良いか」にせず、私なりに厳しく見て指摘させて頂きます。言われなければ、それで良い事になってしまいますので。
人の作業を厳しく見ると言う事は、そのまま自分のあり方を厳しく見ると言う点検になります。
だから、教える事を通して自分を見直す事になるのですね。とても貴重な経験です。
先週から、何度か人生初の指導運転士になった私に「ありがとうございます。私の出身地のおせんべいです。」と頂きました。スパイシーなカレーが大好きと言う人らしく、とてもスパイシーな埼玉県深谷市のおせんべいでございました。
こちらは満開の桜ですが、木々の新芽が新緑の若葉に変わり初めています。
既に5月が来ているな〜なんて感じます。
出勤のために裏道を走っていましたら、車庫の端っこにこんな鳥がおりました。
オスのキジが鮮やかでした。
とっさの事でしたので上手く撮れてはいませんが、動物たちには恋の季節でもあるんだなって思います。
車庫の端っこにも桜が咲いていますが、咲き方を見ると山桜に近いのかも知れません。桜もたくさんの種類があるみたいですね。
木も動物も、難しい事を考えている間もなく精一杯命をつないでいます。
それを一瞬立ち止まって見る事で、美しいと感じ人は生きていると実感できる。だから、本当は一瞬でなくじっくりと見て、感じた方が良いのかも知れません。
あまりに急ぎ過ぎて、自分の人生も一瞬で過ぎてしまう様に思います。
「いくら短い一日でも、一分ずつ大切に生きれば永遠よりも長いだろう。」
長田弘さんの詩にありました。
実際には、あっという間に過ぎてしまう一日一日ですが、その中に永遠を感じる一分がある。それを感じられる人は、永遠の時間を感じているんだ。感情は宛にならず、色と匂いを信じるんだ。つまり五感の中に確かな永遠の記憶があるって事だと思います。だから触れるって事も信じられるのだと思います。
彼の詩に触れると景色も、人も、動物や植物たちまで、色んなものが違って見えて来ます。自分との関係が変わるのですね。全ては束の間。だからこそ大切なんだと言う本来の関係が見えて来ます。
そして、一番その心が通じないのが人なんですね。自分の感情や正しさにとらわれてしまうから。そうすると心が通じない。心が通じると言う深い喜びよりも、自分の心の正しさにとらわれてしまうからです。
それは、愛でも友情でもない。
今日は、それを奇跡の様に伝えてくれる友人にも会えました。こんな私を限りなく信頼してくれる驚きは、その友人の心にありました。
日々大きな学びが訪れる67才の春です。
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2025/04/08 14:20
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友情、思いやる心、変わる景色。
みなさまお元気ですか?
こちらはあちこちで桜が満開で、暖かくとても気持ちの良い週明けになっています。
(朝の乗務後に、ちょっと寄り道しました。牛久市にあるのにここだけ龍ケ崎市の飛び地「女化神社」の桜です。)
北海道旭川にある旭山動物園で飼育係をして作家になられたあべ弘士さんと言う人と対談した詩人の長田弘さんが「動物たちとのコミュニケーションの基盤は、理解でなく友情なんだと言う事が、あべさんの本の温もりから伝わってくる。」と話し、あべ弘士さんは「動物たちに干渉するのでも、鑑賞するのでも無く、じっと観察する事で見えてくる。」と言うお話しをされておりました。
人間同士だけでなく、動物や植物とだってコミュニケーションができるんだよ。それは友情によって。
うーん。目からウロコって感じがします。
友情が無いと実は人ともコミュニケーションできないって、なるほどって思いませんか?
お互いがお互いを信じあい、大切に思いあう気持ちや関係性のことを「友情」というよ。友情は、対等で平等な関係の中で育っていくもの。友情で結ばれた相手とは、一緒(いっしょ)に何かをしたい、考えたことを言い合ったりしたいと自然に思うことができるんだよ。
友情について、そんな解説がございました。相手を大切に思う気持ちが無いと友情はわかない。当たり前の事だけど心と心が通わないのですから、コミュニケーションにはならない訳です。
ただ自分の考えや都合を押し付けて、相手に干渉しているだけになっちゃう訳です。すると拒絶される。
動物は、人みたいにずるく立ち回れないのですからそっぽを向かれたり、噛みつかれたりするのですね。
友情を持って、相手を大切に思いながら良く観察する事を通して相手のメッセージを読み取って行く。そして、どうすれば通じ会えるのかを見つけて行くのですね。
ところで、今はスマホが発達して、動物園でもどこでもカメラ越しに相手を見て、写真に撮って終わり。実は相手を自分の目や五感を使ってじっと時間をかけて観察なんてしなくなってしまいました。
そう言う私自身も、確かにそうだと思うのです。
見ているのは画面を通した相手であり、友情を持って相手を良く見ている訳ではないのです。
そうすると、どんな相手や物とも深くはつながれないと言う事になります。
たくさんの人に関わり、たくさんのものを見ても、自分の心との関わりが浅いのですから生きた記憶にはならない。ただ通り過ぎる風景にしかならない。つまり、共に生きた!って言う喜びがある鮮やかで深い記憶にはならないのです。
(帰宅して、庭の雑草を抜いておりましたら二匹出て来ました。いよいよ春なんですね。)
私たちは、心を動かす事がめっきり減った様に思います。自分の心の声に耳を傾けなくなりました。そうすると人の心の働きにも鈍感になります。つまり、自分も人も大切に思えなくなっている。
それだと動物や植物も、そっぽを向いたまま。しかし、私たちが忘れがちな心の働きで友情を持って接すると、相手も応えてくれる。それを教えてくれているのだと思います。
友情、相手を思いやる心無しに本当のコミュニケーションは成立しない。
私は、私を思いやり続けてくれた心の友人からそれを学びました。
そうして、やり過ごして来た人や景色を立ち止まって、時間をかけて良く見る様になって来ました。そして、その中で自分がどう働きかけたら良いかを考えます。
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2025/04/07 12:33
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