自分が自分自身の主体であること
みなさまおはようございます。
昨日の朝ブログ「日曜日」とねぼけたことを書きましたら、JRの後輩から訂正が入りました。
ありがとうございます。
で、今日が日曜でございます。
昨日は、携帯電話の機種交換を予約して家族で行きましたら、何と4時間もかかり「東京ではあり得ない!」と妻が呆れました。
「4時間は、初めてだけど3人分だから2〜3時間は覚悟してたよ。数分おきに電車が来る東京と30分に一本とか、1時間に一本の地方と時間の流れが違うんだよね。」
「うー。東京だと通用しない働き方だと感じるな。」
そんな話をしました。
私には当たり前の前提が、当たり前でないことを日常の一つ一つに感じる日々でございます。

(庭の「福来ミカン」にアゲハチョウの幼虫を発見した息子。綺麗でかわいいと撫でるのですが、臭い臭いを出さないので驚きました。無理やりつかんだりしなければ、臭いで威嚇しないことを初めて知った私です。当たり前の前提は、当たり前ではありませんね。)
JRの後輩は、彼が所属する労働組合の情報を郵送で送ってくれました。
その中に、JR東日本の昨年度決算が5700億円の赤字なのに株主への配当500億円は維持されているとありました。
そしてほぼ同じ金額が合理化と要員削減で生み出されている、とありました。
そこで少し考えたことですが、かつては「会社」をめぐって経営者も労働者も主体的にぶつかっていた様に思います。
経営者の主体性も、現場労働者の主体性も無視して「上部団体」が仕切ったり、政治的利益を持ち込むことは、労使から不信を買いました。
だから私は、労使双方の主張や思い、歴史を聞いて調整役に徹した様に思います。
つまり、企業においては労使ともが主体として成立する関係があったのだと思います。

(後輩は、こんな缶バッジも送ってくれました。)
JR東日本の決算から見えるは、経営者の主体性というより企業の所有者は株主であり、その利益のためにあるという構造だと思います。
つまり、経営者も労働者も企業の主体ではなく、双方が株主、つまり資本提供者に支配従属されている関係だということです。
世の中を決めているのは、実は政治ではなく「労使間の自治」であり、労働組合が重要なのだということを「労働組合とは何か」という本では言われておりますが、果たして経営者が主体性を本当に持っているのでしょうか?
そこに振り回されていて、労働者や労働組合が時代や社会の主体になれるのでしょうか?
なんて考えてしまいました。
誰か?ではなく引きづられない自分がどうするか?それ無しに、相手の主体性なんか尊重できる訳が無いと思います。
みなさんは、どう思われるでしょうか?
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