距離感持って親近感へ
今日は、小学校の送迎です。1週間に1回程度で、乗務する様になってから半年くらいになりますでしょうか。
それでも添乗員さんたちや子どもたちとの距離がずいぶんと近くなった感じがします。
そうそう、工場の送迎で乗って頂いている外国人や日本人の人たちともです。
ちゃんとお顔を見てあいさつし、聞ければ名前を聞いて覚える。そして、なるべく話しかけてそれを記憶する。とは言っても暗記みたいにではなく、一人一人の人生や好きな事に感心しながら。
それでも、タメ口は使わず礼儀を持って接しております。人と人とは例え親子でも別人格ですから、相手への人として尊重を忘れない様に。
(昨晩は、風情のある朧月でした。)
思えば、昭和の時代はタメ口を言い合えるのが友情の証みたいだったかも知れません。
距離感の無さの楽しさがありましたが、そこから外れると引っ張られたり、弾かれたり。
それでも我慢していれば、それなりに生きられた経済成長の時代背景があった様に思います。
今とは前提が違うのだと思います。
どうもそれなのに、同じ様な感覚で共同歩調を取らせ様と強いていないのかな?
右だとか左だとかの争いもありますが、それ自体が時代に合っていない様に思えてしまいます。
人が離れて行くと言う事には原因や理由がある。本当に大切に思う人が離れてしまった時に、相手を非難しても何も変わりませんね。
どうして離れたのか?その原因を考えて、反省しなければ何も変わらない自分がいるだけで、さらに人が離れて行くだけではないの?って、私は考えます。
失う事に深い痛みが無ければ、大した関係では無かったと言う事でしか無いと思うのです。
痛いし、寂しいし、辛いから反省する。そうして、個人も、組織も、社会も初めて変わって行けるのでは?
そう思います。
(相思花・彼岸花の葉が出て来ました。花が咲く時期には葉が無い。他の植物が枯れ始める頃に出て来て、陽射しを浴びて球根に栄養を送るのです。葉をちゃんと見たのは初めてです。)
国会でも激しくやじり合い、政党組織の中でも何だかんだとやり合っておりますが、どうも感心しない。子どもたちが見ていてどう思うのでしょうね。
相手への尊重どころか、距離感を失ったクレイマーの様に見えてしまいます。国民には改革と負担を訴えながら、自分たちは昭和の感性のままじゃないの?なんて思ってしまいます。
まあ、一緒くたにするのは失礼かも知れませんが。
人として本当に困ったり、痛んだ事があるのだろうか?なんて思ってしまいます。深く反省したら負けの世界なんでしょうか?
良い気になって、国境を踏み破って武力支配を試みて大変な目にあった歴史がある事は、まるで自分たちには関係無いかの様です。
境界線を越えれば死闘になると言う本質は、人と人との関係の本質でもあると思っています。
とすれば、距離感も大切にしなければなりません。距離感をちゃんと持てるところに親近感が生まれる。
そう言えば、車間距離を取れない人も多い様です。何故かギリギリ詰めて圧迫感を与えるのが勝ちと思っている人たちがおります。抗議すれば切れる。威圧して相手が怯めば勝ち。
「煽り運転」として社会問題にもなっておりますが、その模範があるのでは?
走行線も大事なら、車間距離も大事、そして安全な速度で交差点は無理せず慎重に。俺は上手いなんて傲慢は、失敗の元。
お互いに守り合い、笑顔で親近感を持ちたいから。
社会が良い方向に変わって行くために、バス運転士の日々に学んだ方が良いかもなんて思います。
最新記事
(11/23)
(11/22)
(11/21)
(11/20)
(11/19)