辻川慎一つくば便り

木のある暮らし

事情があって家を売ろうかと、不動産屋さんに査定して頂き止める事にしました。

築40年になる建物に資産価値は無く、土地代だけで解体したら買った時の四分の一だと言うのです。

資産価値は無くても、家に込められた私の時間があるのです。

大体どうしてみんな資産価値として見なければいけないのでしょうか?


(ちょっと雑然としていますが、私が作った天然木の棚です。あれやこれや、できないなりに苦労して作りました。)


昔良く読んだマルクスとエンゲルスと言う人がおりました。資本主義のあり方を深く批判されたお二人でした。

そのエンゲルスさんが

「家を私有する者は土地に縛られた農奴の様に家に縛られる。」

と言われておりました。

財産としての家を見るから財産を守るためにと縛られてしまう。

そう言う発想から解放されて財産と家を切り離さないと、家は自由に楽しい時間を過ごせるものにはならない。と言う訳です。

なるほど、そう言う事か!
財産を守ろう。資産価値はいかほどか?なんて考えるから、つまらなくなってしまう。

木の家の木ってそもそも弱い材料です。だからこそ、大事に扱わないと上手く生活できない。日本人がものを大事にすると言う日常的思想は、どうやらそこから生まれて来た様です。

木を基準に考えると木の建物には、一瞬ではなく木と人の時間の流れそのものがある。

私は値段が安価で加工しやすい柔らかさなので良く使う杉の木。白いのがあったり濃いピンクの部分があったりで、なかなかビジュアル的には難しい木なんですね。ところが紅白のある「源平の木」って見ると違って見えたりします。弱く柔らかい源平の木。それが日本人の好みに合ったのかも知れません。

弱いから大事にする事で生まれる時間。木を大事にする事で育まれる心の豊かさを大切にして来た日本文化の土台の様に思います。


(家の裏に咲いている「梅花空木・バイカウツギ」です。)

木がある家も減って来ましたが、茨城にはたくさんの木がまだあちこちにあります。資産価値なんかで見るのでなく、共に生きているものとして見たら、大事にされ方も変わる様に思います。

今日は暖かくなって、梅の木を良く見たら「ウメシロカイガラムシ」がびっしり付いているのを発見。虫も早速の活動でございますね。

なのでブラシで丁寧に除去させて頂きました。何気に動けない梅の木が元気になった感じが致します。

そしてまた来年花を楽しませてもらい、実まで成るのです。

誰でも無い私が掛けた手間と時間の報酬と言う訳です。

それが私だけでなく見てくれる人が楽しめたら益々楽しいのだと思います。

財産や資産なら私的で閉鎖的になってしまうのですが、楽しんで住んでいる人がいると思えれば伝わる。

そんな関係の様に思います。
そうして何事も大切に思える人になって行く。楽しめる心には余裕ができる様に思います。

余裕の無い人の運転は危うい。私自身がそうでしたから、分かるのです。

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