わが家の休日。
「もうすぐ国分さんが来るぞ!起きなさい!」の声から。
と言う訳で、私が見つけた「ジャーマンアイリス」のスポットに行って待ち構えました。

国分さんが運転する電車です。汽笛を鳴らしてくれました。
「国分さんが名物運転士になったら、JR東日本も運転士から外せなくなるんじゃない?」と妻。「そうなれば、たくさん抗議が寄せられるからね。」と私。
土浦駅方面からも特急電車が来ましたので、そちらも「撮り鉄」して見ました。

ブログ読者の後輩から「明日から清掃に行かされるのは国分さんですか?」の問い合わせがありました。
「池田さんですよ。」と返したら「あんなに良い人にひどい。もし私が水戸にいたら、一緒に配転されます。」と気持ちを伝えてくれました。
仲間だったら、仲間だけにひどい目を合わせない。だからみんなで闘う。それが労働組合の原点だと思います。
ところが「辻川の様になるから闘うべきではない。」と言う人たちもいるとのこと。
私は、自分の利益でなく仲間たちとの信頼と未来をかけて闘い抜きましたので何の後悔もありません。なのに辻川の様になる?って、結局全然分かっていないことが良く分かりました。
組織のためと言って、人の思いや気持ち、人の存在自体を台無しにしているのが分からないのだと思います。

昨日のブログには他の読者からも意見が寄せられました。
「私も昔、先輩から青年部の動員で日比谷野音行く時に駅の改札で国労のバッヂ着けてる駅員のところに行けば、全逓(労働組合)の腕章着けていればスルーだったんだと聞いたことがあります。それを聞いて『労働者の連帯感っていいな!』と思いました。
労働運動に限らず全てにおいて結構ユルい時代の話しです。一体何年前の話しに何因縁吹っ掛けてるんだって、正直ムカつきました。要するにブログのあら探しですね。何が悔しいんですかね。」
まあ、間違えない人も、あらの無い人もおりません。人は、簡単に割り切れない。私は、裁判官でも何でもありません。自分を基準に人を裁くより、人と人とが助け合い、できないこと、足りないことをフォローし合い、生きて行った方が気持ち良い。
だから仲間が集まった。それだけかも知れません。