辻川慎一つくば便り
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見える見える都が見える。
みなさま金曜日でございます。
今週も色々とありましたが、最後の関門「金曜ラッシュ」を乗り越えますと「フルタイムパート」の限定バス運転士である私は休みでございます。
考えて見れば、バス運転士で土日や祝日が基本休みになるなんて有り難い事だと思います。
平日も夜が遅いとは言え、その分家事や買い物ができますので、元気であれば一人暮らしもあまり苦になりません。
土台人を頼りにしたり、あらぬ期待を持ったりして依存するから自分の事には自分で責任を取るしかないのだって事を忘れてしまうのかも知れませんね。
アルコールやギャンブルならずとも、医者や薬に依存して自分の身体や心に聴きながら生きないと言うのも立派な依存症の様に思ったりして反省致します。
まあ、70を前にしてお陰様で歯医者さん以外には医者と薬には縁が無いのではありますが。
車庫の裏、端っこからほぼ出庫する私でございます。
バスを点検して、点検表を記入し日報の準備をしておりますと、ウグイスの鳴き声が聞こえて参ります。
隣の森には、野うさぎがいて、キジがいて、葉が不自然に動いたりしますのできっとリスもおります。
そんな森の木の一つです。「カクレミノ」と言う名前の木なんですね。
葉の形が、「天狗の隠れ蓑」みたいだと言うのでそんな名前が付けられて庭木にもされているそうです。
「天狗の隠れ蓑」?って物語があったよな〜って思いましたら、小学校の時の教科書にあったお話しでした。
熊本に伝えられて来た民話の「彦一話」の一つなんですね。
「見える見える都が見える。綺麗だな〜。」って何にも見えない竹を宝と偽って、天狗の隠れ蓑と交換してしまう。
そんなお話しでした。
ワンフレーズだけ記憶しております。
「彦一ばなしは、主に熊本地方で語り継がれてきた民話で、ユーモラスで親しみやすいキャラクターが、困難を乗り越える姿が魅力です。彦一は、権力者や富裕層に媚びず、弱者を助ける民衆のヒーロー的な側面も持っています。」
との解説もありました。
なるほど、そう言う事だったのですね。金持ちや権力者に媚を売る事なく、ユーモラスに困難を乗り越えて行くのが彦一さんの魅力だったのですね。
みなさんに、生きて行く上で大変な事がある訳ですから、シリアスなだけだと余計に重くなっちゃいますね。
私も、一人になると何だかんだ思い悩みシリアスになっちゃうので、人の前ではシリアスな話なんかせずに笑います。
これが昔の雨具「蓑」なんですね。
私が出庫して、本社前を徐行して同僚たちに手を上げておりましたら、若いやんちゃ君が私のバスの前に立ちはだかって「通せんぼ」を致しました。
「おい〜!」ってつぶやきながら、やんちゃ君にも笑って手を振りました。
若者に構われる高齢者でございます。竹筒で彼の宝物のシャコタン高級車と交換してやろうか。
お互いに大切な自分の世界があるのだと思います。会社には目を付けられておりますが、私には可愛い彦一青年です。
6月6日の金曜日、ラッシュに気を取られず、自分の大切な時間として過ごせたら良いなと思います。
それでは、そろそろ本日2度目の出勤を致します。
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2025/06/06 13:41
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長い夕暮れに
昨日は、小学校の送迎バスでした。有り難い事は夕方に帰宅できる事です。
22時就寝で3時起きの日々はかなり疲れます。昼間の時間はあるのですが、明るい昼間に仮眠できたとしてもやっぱり疲れは溜まるのですね。特に神経を使う仕事ですので、疲れ方が違います。
なのでまとめて夜に眠れると言う日があると、とても助かります。
ところで、部屋からゆっくりと一人庭を眺めておりましたら、夏が近づき夕方がとても長い事に気が付きました。
夏至が6月21日ですので、今月の昼間が一番長いのです。
真夏にはだんだんと短くなって行く。つまり、既に秋が潜んでいると言う訳です。
ところで、なかなか日が暮れないと言うのも寂しく、辛いものがあると感じます。
夜が来ないと休めないのですから。
暗くなりましたら、倒れる様に眠る事が出来ました。
そんな事をゆっくりと感じられるのは、初めての事かも知れません。
自分自身の感覚を置いてきぼりにして来た様な人生だったのですね。
色々と何かのためにとか、人のためにとか散々やって来て、結局良くは言われず、罵倒され恨まれたりする。懸命に何でもやって来て「何もできないくせに。」なんて言われる始末でした。
最近は、バスの運転をしながら何より自分の感覚の確かさをつかんで来た感じがあります。
仕事って、人が確かな自分として生きて行く上で大切なものなのだと思います。
他者の評価や対価に明け渡しては行けない自分自身の感覚があるのです。
「何もできないクセに」って、何かが出来なければ人として存在する意味が無いとも取れます。
何かが出来なければ生きる意味は無いなんて言う考え方って、明治以降の立身出世主義の影響の様に思ったりします。自分だけで出来る事なんて何も無いのに。
そう考えると、たかだか百数十年の考え方になります。
(私のブログを楽しみに待っていてくれる方からのアドバイスを頂き「大玉トマト」に挑戦中です。)
私自身も、立身出世とは逆の生き方を選択したはずでしたが、結局別の立身出世を目指していた様でございます。労働組合や政治党派の中でです。
でも、会社でも党派でも、あるいは労働組合でも、その中で地位を築こうとすれば、自分自身の感覚で!なんて事は通用しない組織の事情や論理と言うものがあります。
その論理と言うのも組織維持のためにと言う事情で変わるのです。論理と言うのも純粋には成り立たず、それぞれの人としての感覚を押し殺すところに成立していると言う訳です。
(ピーマンの花が、実になって来ました。)
まあ、それぞれの組織維持のための観念のバトルが展開されるののは、戦争の論理と同じなのですね。
さて私は、この映画を思い出します。
鉄道員として真っ直ぐに生きて、子を亡くし、妻も亡くし、定年退職で行き先も無く、駅で死んで行った男の物語。
ところで、この映画には志村けんさんも出ております。
役どころは、父子家庭の非正規の炭鉱労働者でした。
駅前の居酒屋で、正規職の炭鉱労働者からストライキなのに仕事をした(スト破りと言いました。)と取り囲まれて責められる。
それを鉄道員が止めると「テメーら親方日の丸じゃね〜か。」とケンカになる。
その時に、女主人の奈良岡朋子さんが水をかけて「私しゃ日の丸も赤旗も嫌いだよ!」と止めるシーンがあります。
結局志村けんさんは、炭鉱事故で命を落とす。
実際に炭鉱事故が連続して起こり、たくさんの労働者が無くなった歴史がありました。
私も鉱夫の息子でしたので、両親と息を飲みながらニュースを見ていた事を忘れません。
何の因果か、私も鉄道員になったのでございます。
私に取っては、かなり特別な映画なんですが、自分が赤旗を振っている時には見えないシーンだったのです。
振っている旗が絶対だなんて考えて人を押しつぶすならば「日の丸も赤旗も」おんなじだ、嫌いだよって言葉が
重い。しかも、権力と言うものに抗った奈良岡朋子さんに言わせているのですから。
立身出世主義から、個別バラバラの孤立化社会への急速な転換。子供を虐待する親が過去最高になり、自殺者の数も凄いままです。
自分の孤独を噛みしめながら、自分の感覚から逃げる事なく孤独を感じて、ギリギリの人が自分だけではないと想像する事。今は、とても大切な事の様に思います。
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2025/06/05 13:29
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間が語りかける。
東京から茨城に連れてくる事になった活動的な人を、一人にしては申し訳ないと朝の乗務が終わると疲れていても買い物や食事に連れて行く日課でした。
稼いだお金も年金も全て渡し、私が頂くのは月に一万円。
同僚に誘われても「お弁当がある」とお断りし、ちょっとしたお礼に飲み物を買うのも財布の中を心配しながら。
なかなか厳しい日々でございましたが、それが養子になってくれた息子が独り立ちしてもエンドレスの自転車操業が続いている事が分かってしまいました。
あと2年したら70才。
一体いつまで働けるのかは、分からない。
色々な事がありましたが、私がギブアップした根本問題なんですね。
静かに、ゆっくりと生きたい。波乱と激動の人生でしたので、それが望みでありました。贅沢な望みなんでしょうか?二兎は追えなかった様ですが、一兎は得ているのかも知れません。
公園で、自前のお弁当を頂きました。
アジサイの季節なんですね。たくさんのアジサイを植えてある風景も良いですが、この様に間を取って豊かな空間にある立ち姿も良いなって感じます。
時間も空間も埋め過ぎると、落着きませんね。豊かって、いっぱいある事では無い様に思います。
時間を秒単位にまで細分化すると忙しなく、心の方は貧しくなるばかりで、どんどん豊かな時間が無くなるのです。
間を取ることは、豊かに感じる秘訣の様に思います。
忙しいかきいれ時に突然辞めた運転士さんが出たために、運転士の育成が間に合わずてんやわんやの様です。
お陰で新人さんたちも大変なんですが、ミスで外されていた人が希望していたバスに乗れたりもしております。
良かったですね!と言うと「不満があるみたいだよ。何をしても不満を言う人なんだね。」と別の同僚の方が言いました。
私の方は、時給940円の8時間労働。その日その日でやる事が変わる総務課員を2年近く経験しましたので、乗務にいかに神経を使おうとも何時間か間のある仕事に不満は無いのです。運転だけしていたら分からない事でした。
しかも今は、社員でなく日給一万円のフルタイムパート。社員だとバスを修理や定期点検に持って行ったり、引き取りに行ったり、不意打ちみたいに別の仕事が入るのですが、よっぽどでないと回って来ません。
つまり、扶養する人がいなければ給料日を不安な気持ちで迎える必要も無くなりました。なので稼ぐ事にガツガツしなくなったのでございます。
寂しくはなりましたが、心は穏やかです。同じ年の他の
同僚の方が待遇が良くても「当然」だと思っています。やっている仕事の濃さが違うのですから。本当のベテランたちと腕も違うのを良く知っております。
正当かつ平等な処遇だと思っております。
なので不満は無いのです。人が怒るのは、同じ事をしていて不当に差別されたり、不平等な扱いをされるからですね。
客観的に見て特に不当でも無いのに、不平不満を言うのはただのわがままで自分が見えていないだけの様に思います。一体何なら良いのでしょうか?
今日は、ほっとする小学校の送迎担当です。何しろ早く眠れるのが一番なんです。
学校にはビワがたくさんの実を付けております。ビワ好きなんですが、頂く訳にも行きませんので写真だけ撮りました。
明日は、終わりの遅いいつもの工場送迎ですが、年配の新人さんの研修指導が指示されております。
限定運転士ながら、この間次々と指導を任されております。
そちらの責任も重大ですが、任してもらえると言う信頼の方が嬉しいですね。
そんな日々を、一日一日と大切にしながら良い立ち姿になって行けたら良いなって思います。
あまりたくさんの言葉で埋めずに、考えながら語りかけたいなとも思います。演説し論文を書いて来て、あふれる言葉や文章では何も変わらないと言う無意味さも味わいましたので、語るよりは聴く事を大切にしたいと思っております。
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2025/06/04 11:41
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習熟することと確かな自分。
相変わらず、バスの運転が下手だなって思いながら、試行錯誤しながらやっているうちにある時急に飛躍して目が開けた自分がいる事に気付く。
徐々にとかではなく、急に花開いた感じの時があるのです。
(ミニ畑にピーマンの花が咲きました。)
そう思うと、ジムに通って減量しながら筋肉を付けようとした時に、最初はだんだん落ちて行くのですがある一定のところに来ると変わらない段階がありました。
それで、止めればそれまでなんですが、続けていると飛躍的に身体が変わる時があるのです。
習慣として継続する事の中に、飛躍がある事を学んだ瞬間であったと思います。
バスの運転も、何事も習慣を土台にして継続する事で習熟して行くのだと改めて実感する日々です。
なかなか簡単に上手くは行かない。でも、向上心を持って模索しながら習慣付けて行く事で飛躍がある事に、年齢の制限は無い様に感じております。
限界を設けて自分の現状を自分に正当化したら、それで終わりの様に感じます。
(トマトの花も咲きました。)
昔、国鉄の労働組合で「合理化反対」とか「効率化反対」とかが激しく論じられ、スローガンに掲げられておりました。
しかし、効率化社会の便利さや時間節約の凄さの前に説得力を失ってしまいました。自分たちの主張の正しさをぶつけ合うと言う観念の争い自体の無意味さを、効率化社会の便利さが圧倒して来た様に思います。
しかし、同時に人の能力が人自体の能力ではなく、持っている道具によって決まる様になりました。
個性とかに意味は無く、便利な道具があれば誰でも良いし、誰でもできると言う訳です。つまり、無力化社会になってしまったのですね。自分である特別の意味がどんどん薄れているのです。
誰しもが特別の存在では無くなっている。
(20時半帰宅で、22時に就寝の日々。寝る前なので今夜はサラダ。準備してタマネギの皮を剥いたら、とても美しく感じました。)
でも、人間が世界の主人公だと考えて観念を暴力にまで高めたのが戦争なのですから、特別な存在で無いと言う事は悪い事ばかりでは無い様にも思います。
人間も自分も特別な存在であると言うのは、間違った観念の様に思います。
では、特別でない私たちが、生きている確かな手応えってどこから生まれるのでしょうか?
日常であり、社会と関わる仕事の中にある様に思います。
効率化や高速化で時間を節約して来たはずなのに、出来た時間って何に使っているのでしょうね?それから、働いて得たお金は何に使っているのかな?
一生懸命、時間を埋めて、お金を使って、やっぱり足りないよ。なんて感じの様に思います。すっかり日常も、人生も効率化してしまっていて慌ただしい訳です。
バスの運転は、雑念に囚われると危ないんですね。心の在り方が正直にでます。だから、運転日報に字を書く時からなるべく落ち着いてゆっくり書く様に心掛けます。
そう言う習慣を付ける事が、運転にも生きると思うのです。運転そのものも、自分への習慣付けだと思います。習慣が習熟に変わって行く。
その時に、確かな自分がいる事を感じられるのです。
つまり、効率化の極限を求めて特別な自分なんて無い時代に確かな自分を感じられるのは、アナログな日常の習慣の中にある。
思えば、国鉄分割民営化の時代から、効率化に反対して何をして来たかと言えばアナログな「仲間たちとの日々を大切に守り続ける事」だったと思います。
その習慣を習熟させて来たはずでした。そこに効率化の時代への人としての存在をかけた闘いと確かな実感があった。
習慣の力と言うのが、人としての確かさの土台であったと改めて感じる次第です。
今夜は雨の夜の部です。視界が段違いに悪くなります。自動車だけでなく、自転車、歩行者もお互いに見えにくくなります。
困難ですが、それも習慣と習熟で安全に乗り切る。やり切れた時にまた、確かな自分を感じられる。
今夜も頑張ります。
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2025/06/03 14:36
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遅すぎる花
みなさま、週明け月曜日。
朝の乗務が無事に終わりましたら「緊急ミーティング」がごさいました。
大型バスの後輪と自転車のタイヤが接触して、ケガは無かったものの自転車が壊れてしまったとの事で「左折時には、後輪に注意せよ。」と言う警戒と対策についてのミーティングでごさいました。
大型バスの場合、タイヤ間の距離(ホイールベース)が長い上、後輪の後ろも長いので運転するのが大変なんですね。しかも、運転席が前輪の前にあるのが他の車との大きな違いです。
それでも絶対に当ててはならないと言うのが、当然のミッション。出来なければ辞めるしか無いのでございます。
そんな重いミーティングのあと「辻川さん新しく来たバスの試走をするんだけど運転する?辻川さんがメインに担当するバスだから。」と同じ年のベテラン運転士に言われました。大型バスなので不安はありますが「喜んで、お願いします。」と言いました。
今までよりも大きな路線バスタイプのバスです。
運転士を外れていた期間が2年ほどありますので、実際のキャリアは3年で大型バスを運転してからは4年が経っております。しかも、運転士になりたての頃で失敗ばかりでしたので大型バスにはトラウマがあります。
しかし、いずれ運転したいと思い大型バスをイメージしながら中型バスを運転しておりました。
そして今度のバスはオートマなんですね。オートマのバスは、マイクロバスを除けば初めてです。しかもノンステップバスと言うタイプも乗った事がありませんでした。
ベテラン同僚が簡単に説明してくれてから「好きに走って良いよ。納得するまでね。」と言う。で、恐る恐る走って見たのですが、落ち着いて出来たのでございます。
1時間半ほど工場送迎のルートを走ると「大丈夫だね。さすがベテランだよ。」とOKが出ました。
はい。これで慣らし修了で次に運転する時は本番と言う事になりました。
バス運転士としては、昔と見違える様な自分を、自分が見ておりました。
呆れるくらい遅咲きの花です。たぶん直ぐに、また大型バスで新人さんの研修指導が命じられます。
自分では分からない自分、自分では見えない自分がいて、任せられないと上司や周りが見ていれば無い事なんですね。
私の労働者人生の中で初めての、私の仕事への信頼を感じる「事件」が起きております。
一人暮らしになってから、入り口のナンキンハゼの木に「ただいま〜」と言ったり、今朝は、スダチの木の葉にいたアマガエルに「おはよ〜」と言ったりしております。
寂しいなんて云うことなかれ。無期懲役で獄中にいた星野さんには、そんな自由も無かったよな。私はまだ幸せだと思えるのですから。
さて、そんなこんなと不安に思えば切りが無い。
新人の青年さんが「難コースを運転するのが不安です。」と相談して来るので「不安は分かるけれど、緊張し過ぎると見えなくなってミスするよ。良い緊張感を持てれば大丈夫だよ。君ならできるから。」とそんな話しを致しました。
たくさん失敗して、どん底に落ち込んで、這い上がる様にして今ある私だから言える事があるのだと思います。
そうですね。私が本当にベテランなのは、誰もやった事の無い様な事をして来た人生だった事です。
一人になり、自分の人生を見直しながら静かにバスのハンドルを握り、後輩たちを励まし続けている。
だんだんと説得力が出て来たのかも知れませんね。
(庭の小さな「ヤマアジサイ」も開花しました。)
と言う訳で、遅すぎる花の私。夜の部に行って参ります。
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2025/06/02 15:37
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