辻川慎一つくば便り
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習熟することと確かな自分。
相変わらず、バスの運転が下手だなって思いながら、試行錯誤しながらやっているうちにある時急に飛躍して目が開けた自分がいる事に気付く。
徐々にとかではなく、急に花開いた感じの時があるのです。
(ミニ畑にピーマンの花が咲きました。)
そう思うと、ジムに通って減量しながら筋肉を付けようとした時に、最初はだんだん落ちて行くのですがある一定のところに来ると変わらない段階がありました。
それで、止めればそれまでなんですが、続けていると飛躍的に身体が変わる時があるのです。
習慣として継続する事の中に、飛躍がある事を学んだ瞬間であったと思います。
バスの運転も、何事も習慣を土台にして継続する事で習熟して行くのだと改めて実感する日々です。
なかなか簡単に上手くは行かない。でも、向上心を持って模索しながら習慣付けて行く事で飛躍がある事に、年齢の制限は無い様に感じております。
限界を設けて自分の現状を自分に正当化したら、それで終わりの様に感じます。
(トマトの花も咲きました。)
昔、国鉄の労働組合で「合理化反対」とか「効率化反対」とかが激しく論じられ、スローガンに掲げられておりました。
しかし、効率化社会の便利さや時間節約の凄さの前に説得力を失ってしまいました。自分たちの主張の正しさをぶつけ合うと言う観念の争い自体の無意味さを、効率化社会の便利さが圧倒して来た様に思います。
しかし、同時に人の能力が人自体の能力ではなく、持っている道具によって決まる様になりました。
個性とかに意味は無く、便利な道具があれば誰でも良いし、誰でもできると言う訳です。つまり、無力化社会になってしまったのですね。自分である特別の意味がどんどん薄れているのです。
誰しもが特別の存在では無くなっている。
(20時半帰宅で、22時に就寝の日々。寝る前なので今夜はサラダ。準備してタマネギの皮を剥いたら、とても美しく感じました。)
でも、人間が世界の主人公だと考えて観念を暴力にまで高めたのが戦争なのですから、特別な存在で無いと言う事は悪い事ばかりでは無い様にも思います。
人間も自分も特別な存在であると言うのは、間違った観念の様に思います。
では、特別でない私たちが、生きている確かな手応えってどこから生まれるのでしょうか?
日常であり、社会と関わる仕事の中にある様に思います。
効率化や高速化で時間を節約して来たはずなのに、出来た時間って何に使っているのでしょうね?それから、働いて得たお金は何に使っているのかな?
一生懸命、時間を埋めて、お金を使って、やっぱり足りないよ。なんて感じの様に思います。すっかり日常も、人生も効率化してしまっていて慌ただしい訳です。
バスの運転は、雑念に囚われると危ないんですね。心の在り方が正直にでます。だから、運転日報に字を書く時からなるべく落ち着いてゆっくり書く様に心掛けます。
そう言う習慣を付ける事が、運転にも生きると思うのです。運転そのものも、自分への習慣付けだと思います。習慣が習熟に変わって行く。
その時に、確かな自分がいる事を感じられるのです。
つまり、効率化の極限を求めて特別な自分なんて無い時代に確かな自分を感じられるのは、アナログな日常の習慣の中にある。
思えば、国鉄分割民営化の時代から、効率化に反対して何をして来たかと言えばアナログな「仲間たちとの日々を大切に守り続ける事」だったと思います。
その習慣を習熟させて来たはずでした。そこに効率化の時代への人としての存在をかけた闘いと確かな実感があった。
習慣の力と言うのが、人としての確かさの土台であったと改めて感じる次第です。
今夜は雨の夜の部です。視界が段違いに悪くなります。自動車だけでなく、自転車、歩行者もお互いに見えにくくなります。
困難ですが、それも習慣と習熟で安全に乗り切る。やり切れた時にまた、確かな自分を感じられる。
今夜も頑張ります。
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2025/06/03 14:36
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