辻川慎一つくば便り

大事な事は目に見えない。

昨晩の乗務中は雨降り。終わる頃には月が見えて、終わって帰る時には深い霧。道が見えなくなり怖いくらい。見えない道を、僅かに見える路肩やセンターラインを頼りに進んだ。もちろん、速度を下げないとそれすら見えなくなる。対向車が、はみ出て来ない事だけを祈った。

今朝もまた濃霧の中を出勤。良く見えない道を走らなければならないのは、自分の人生みたいだと思ったりした。

自分でもまだまだと余裕なんて無い大型バス運転の現状なのに、今日もまた外国人の青年の研修「指導」が指示されていた。

何人かの新人運転士の「指導」をさせて頂きながら「人の事は見えるけれど自分の事は見えないんだな」と言う事を改めて感じて来た。

誰かに教えるとか、指導するとかが好きな人もいるが、自分はどうなのか?が問われるので、私は好まない。ただ、自分自身を振り返えるという意味では、貴重な経験だと思った。

つまり、人に教えるとか、正すとかは自分を正す機会として重要なのだと思う。なので、とても疲れる。

今日も自分で運転して見せて、所定の乗務が終わってから彼の運転を見るための同乗研修だった。動きも視力も良い孫の年に近い青年と動きが遅くなるばかりの高齢運転士の組合せ。指導と言うより、助けてもらっている様な気さえする。こちらは良く見えないが、彼は良く見えるのだから。

それでも業務上は、指導する立場を命じられているのでちゃんと見なければならない。

とても疲れてしまう私がいる。


「大事な事は目に見えないんだ」とは、「星の王子さま」の言葉だったと思う。


人は、人の事が見えても自分の事は見えない。人の事はどうのこうのと言うけれど「そう言うあなたはどうなのか?」と思う事が多い。逆に自分は見えないから、人が自分に対して言っている事が気になるのだと思う。

自分では自分が見えないのだから、本当はちゃんと言ってもらえる事の方が有難いのだと思う。

だから、指摘を受けた時にはどんな事でも「ありがとうございます。」と返して来た。指摘を受けたからダメなのではなく、言ってもらえる様な自分でなければ濃霧の道どころで無くなってしまうから。

自分は見えていると思っている人は、それを不愉快に感じて拒絶するのだと思う。

お互いに見えていないもの、見落としているものを教え合いながら生きるのが友情ではないかと思う。年齢も性別も、人種も、障害のある無しも関係ない。人が支え合いながら、一緒に困難を越えて行く本質がそんなところにある様に思う。


たくさんの菊の花を頂いた。


見えないものでもあるものってなんだ?
写真は見えるが、部屋中に広がる香りは見えない。

心もあるが、見えない。自分の心もはっきりしないのだが、見えないものを感じられるのも心。香りも心も、感じ様としなければ見えないのは同じだと思う。

だから心は、感じてくれる人がいて確かな存在になる。自分だけでは分からない。

大型バスを運転しながら懸命に見るのだが、常に自分の心の置き場が問われる。それを確かなものとして支えるのは、実はその心を感じ一緒に見てくれる友情なのではないか?

そんな事を思う。
今日も、明日も大型バスの運転になった。安易には行かない事を知っている同僚たちや友人が、私の心を支えている。

それは、人生そのものの様にも思う。
ようやく、それが見えて来た。

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