昨日から両親に会うために実家に来ております。
父が90を越えて、下の始末が出来なくなり、汚れものもそのまま仕舞ってしまうと嘆き、疲れたと愚痴る母の話をまず聞く事から。
車を運転し、買い物も、病院に連れて行くのも、掃除も洗濯も、家事の全てを続けている85才の母でございます。
その母の話しを聞く事くらいしか出来ないのですが「結論の無い話しを聞く事が大切」と言う添乗員さんのお話しを思い出しながら聞いておりました。
ちょっと昔ならめんどくさいと思ったり、イラッとしてしまう私だったと思います。

(調理師免許を取り、小料理店を開いた事のある母の手料理。茨城では珍しい薄味の煮物を一際美味しく頂きました。煮魚もベリーグッドです。)
父と三人で夕食を頂きました。父は「耳が聞こえない」と言いながら、自分が興味のある話しには食いついて来ます。話しが飛ぶので、母が「あんた、話が違うでしょう。」と注意するのですが、私の方は父が話しをする事の方が大事に思えるので、そのまま相づちを打ちながら聞いておりました。
子どもたちを守りながら、二人して良く頑張って来たよな〜って思いますと話が飛ぶならついて行くだけだよな〜なんて思えます。
母の方は、目ざとく私の蕁麻疹の腫れを見つけて心配する。ヒスタミンは、特に赤い魚から生まれる物質の様ですが、せっかく私が好きだと用意してくれたカツオのお刺身を頂きながら「大丈夫だよ。心配無いよ。」と言う私。
「弟もいるのにどうして、私の心配ばかりして世話を焼こうとするのでしょうね?」とやはり母親である友人に聞きましたら「あなたが、お母さんを心配させ続けて来たからですよ。」と教えて頂き「そう言う事か。」と納得した次第です。
確かに、尋常でないくらい母に心配をかけ続けた人生でございました。
イラッと来たり、腹を立てたりするなんてもってのほかの私でございます。

(たくさんの著書を残した住井すゑさんが、母親としてどれほど豊かに子どもたちを育てたのか。娘さんの一人が残しております。食べ物の記憶で綴られた自然と家族の物語です。)
自分が正しい事をしているなんて思っていた時代には、かなり怒りっぽい私がおりました。こうあるべきだ!なんてのは思い込みでしか無かった訳です。本当に相手への思いやりなのかどうかが問われていたのですよね。
「怒りにとらわれるのは、毒を飲んで相手が死ぬことを期待するようなものだ」とブッダも言っております。つまり、怒りは自分を殺す事になると言う訳です。
こうあるべきだと思い込み、怒りに支配される心と時間に自由は無いのですね。そんな事のために、どれだけムダな血が流され続けているのでしょうか?
混乱の方向に変わり続ける世界を整え様とする努力が命の役割であるとすれば、怒りなんていう感情に支配される事こそがムダな時間と言う事になります。
田畑や自然を耕す様に、自分の心を耕す。そうして、荒れる人の心も整えられるのかも知れません。
人にイラついたり、怒ったら負けで良い結果には決してならない。そうです。バスの運転をしながら、世の中と人の関係を日々学んで来た事でした。
老いた両親からも、有り難く学ばさせて頂いております。