辻川慎一つくば便り

思い上がり。

大型バスの運転を改めてさせて頂いて良かったと思います。一旦叩きのめされた思い上がった自分を、もう一度立て直してこれた。そうしてようやくつかめて来た事があると、回を重ねる事に実感するからです。

変化する状況の中で、車両の大きさと位置をしっかりとイメージしながら対応する。状況や事態に動揺する事なく、冷静に切り抜けて行く。それを支えるのは何よりも、心の置きどころ。あえて言えば、合理的判断を支えているのは非合理な心にあると言う訳です。

ヴィム・ヴェンダース監督の映画「セバスチャン・サルガド」の衝撃が忘れられず、中古の写真集を買いました。


世界の過酷な状況で働く労働者を撮ったものですが、その肉体労働者たちの表情の神々しさに引き込まれます。


子どもの頃見ていた、私の父や母の姿や表情に重なるからだと思います。私に取っては、彼らは神々しく、あこがれでもありました。だから小学生の頃の作文では「父の様な労働者になる」と書いた事もありました。

ザルガドは、戦争、飢餓、搾取といった悲惨な歴史の暗部を写し出しました。それは正視に耐えないくらいの悲惨さです。しかし、その過酷な状況下でも失われない人間の生命力や、自然界の圧倒的な美しさも深く捉えていました。歴史とは、結局のところ、これらの光と影の両方で構成されていると彼は見た。

「結局のところ歴史は、挑戦と反復と忍耐の連鎖である。それは抑圧と屈辱と災難の終わりの無い循環である一方、人類が生き残る能力を指し示す大いなる遺言でもある。歴史において孤立した夢はない。なぜなら、人間は後に続く次世代の生命の中にその夢を育むからである。」

写真集にあったサルガドの言葉が、ずっしりと胸に響きました。


(今日は、会社の屋上に登って見ました。紅葉の時に登れば良かったと思いましたが、それでもつくば連山を一望できる風景を眺める事が出来ました。)


そう、世界も自然も合理的では無い。人間が合理的に分けられると過信し続けているだけで、土台人間自体が合理的に生きている訳ではありません。

合理的と思われているものは、非合理に支えられている。

昔労働組合のスローガンに「反合理化」と言うのがありました。「反合」とは何か?なんて大真面目に議論していた。資本主義に対する左翼的なスローガンだった訳です。

ところで、自分たちを資本主義以上に科学的で合理的存在だとする社会主義の「反合理化」って、それ自体が矛盾していたと思う。つまり、根本批判になっていない。成り立たない。と言う事なんですね。

我がバス会社の幹部の一人は、「効率化は安全の敵だ。」と言いトイレ掃除を欠かさない人。とても清掃にうるさい社風が作られています。

安全運転に掃除?合理性なんか無くても、心を整えてバスを運転すると言う事には合理的理屈を並べるよりもはるかに有効なんですね。

そして禁物なのは思い上がる事。傲慢になる事。甘く見る事。

社会主義について、ハイエクと言う人が「致命的思い上がり」と批判しました。別にその人の全てが正しいかどうか分からないのですが、ストンと落ちます。それが資本主義であれ何であれ「思い上がりは致命的である。」と言うのは、人間に取っての真理であると私は思います。思い上がりに神々しさは、無縁なのだと思います。

寒いですが、汗水垂らして働く事の中に神々しさがある。同僚たちを見ながら、その様に感じます。

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