母の子。
断捨離をしながら、つい見入ってしまう本もあります。
瀬戸内寂聴さんの著作を何気なく読んでしまいました。
「妻でもないものが、男を愛すると言うことを支えるのは情熱以外には無い。」
あるいは
「好きだの愛してるだの言ってるけど、大半は自分が好きなだけだ。」
とかバッサリ。
自分は痛くも何ともないところにいて語る愛の軽さを、バッサリ切る妻に共通しています。
どうも、世のため人のため仲間たちのために!なんて生きて来た私の軽さも、そこいら辺に原因が有りそうです。

ずいぶんと努力して来たつもりでしたが、本当に人を思い自分の痛みにして来たのでしょうか?
リスクは背負って来たと思うのですが、そのリスクは本当に人を思って背負ったリスクだったのか?
人ではなく大義のために耐えたんじゃないのか?
それだと結局大義に生きる自分が好きなだけにならないのかな?
私の母も、妻も痛みや辛さに耐えて子を守り育てて来ました。
愛することが、自分の痛みと共にある。
「私は、お前のために生きて来たんだ。それを忘れないで欲しい。」
そう母から言われてしまいました。いい気になって一番大事なことを長く忘れておりました。
私は、命がけで生み、どの様な試練にも負けずに育てて頂いた母の子でありました。
妻のために母が作った蕨のお浸しを食べながら
「あなたが茹で加減にうるさい理由が分かったよ。お母さんの茹で加減は、めちゃくちゃ絶妙!」
と言うので、なるほどそうだったのかーと納得した訳でございます。
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