辻川慎一つくば便り
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退屈無き日々
父の世話をしながら日々を送る母。隣近所も高齢者ばかりで、話し相手を求めている様ですが「自慢話」と「お金が無い」と言う話しばかりで嫌になると言う。
父の世話への愚痴であれば私が聞くしかないと思うのですが、隣近所の方への愚痴を聞くのは何やら気分が良くありません。
「仕方ないのかも知れないけど、年寄りばかりだと世界が狭くなっちゃうね。」と母に言いながら、どうして嫌な気持ちがするのかな?と考える。
父の世話だけで大変なのに、ご近所の方の詰まらぬ愚痴や自慢話に母の心のストレスをためている。その事に私もストレスを感じているのだと分かった。
母が心を通じ合える相手が私しかいないのだと思います。
「明日も休みだろう。今日も泊まって行けば。」と言う母。「やる事がたくさんあるんだよ。やらずに居れば、綺麗には住めないし、生活も出来ないんだよ。誰もやってはくれないからね。」と私。
(実家からの帰路、紅葉が見たいと愛宕山に寄って見ました。バスの運転研修で上がり降りした急カーブの狭い坂。こんなところを良く走れたもんだと軽自動車で走りながら、自分で感心する。)
正確に言えば「やる事」ではなく「やりたい事」があるになります。なるべく綺麗に、気持ち良く、愉しく生活したいと言うのは、私の脳と心の欲求なのだと分かって来た。
一人暮らしなので、別に誰かに見せたいとか、残したいとかでもない。突き詰めると自分が気持ち良いから。と言う事になるのです。
夕方になって母に電話をした。携帯電話が苦手だと言うので「使わなければ慣れないよ。バスの運転だって、怖いと逃げていたらそれまで。やるしかないってやってるんだよ。」と使い方の練習をして来た。なので携帯電話でかけて見た。
母が出たので「できる様になったね。」と言うと「忘れちゃうんだよ。」と母。
「伝えたい事があるんだ。父さんの世話をしているだけで大変なんだから、大した苦労もせずに自慢話や愚痴を言う隣近所の人なんか相手にしているより、なるべく自分が愉しめる時間を過ごして欲しいんだ。いつまでも元気でいられる訳じゃないから、好きな本を読んだりして。正月には少しゆっくりするから。」と話した。
「そうだね。お互いに頑張るしかないね。お前の世話もするから。」と笑う母。
「頼むよ。世話するのは大ベテランだものね。」と言うと、楽しそうに「そうだよ。任せなさい。」とさらに笑う母。
(愛宕神社。火防の神様として有名との事です。火の始末をいつも心配する母を思いながら参拝しました。)
本当に苦労しながら生きて来た人は、人への思いやりがあると思う。大した苦労をして来なかった人の話は詰まらない。詰まらないと言うのは退屈だとも言う。
退屈と言う言葉は、仏教の修行から退いて、屈してしまう事から来ていると言う。
考えて見ると退屈とは無縁の人生だったと思う。
自分が心から気持ち良く生きられる生き方。それを求め続けて来たのかも知れないと思う。そのための苦労だから乗り越えて来たのでは無いか?
小さな事にも喜べる様になり、人の情にも敏感になり、心から感謝できる様になるのだから。
つまり、やっぱり大した苦労をしていないで生きてしまうと詰まらない人間になってしまう。
そんな人たちに邪魔されず、愉しく生きて欲しいと、私は母に願うのです。
(神社の石垣に咲いていた「薬師草」。葉が薬師如来の後ろに似ているそうです。)
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2025/11/03 11:01
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