辻川慎一つくば便り

細心にそして悠然と

本当の発見と言うのは、自分の内面に変化をもたらす。

昨晩の大型バスの乗務には、確かな手応えを感じた。自分が注意すべきポイントが明確に分かり、そこでは良く周りの状況を見ながら可能な操作を判断する。しかも、予期せぬ事態にも対応するために決して無理をせずに、急がない。

ゆっくりと動いている大型バスにわざわざぶつかって来るドライバーは滅多にいないはず。

要所、特に狭い交差点の左折は歩行者、自転車も含めて死角がある。しかも、内輪差を取らないと後部タイヤやボディが角に接触する。そして右サイドのオーバーハング(後輪の後ろが長いので突き出る事)で右折待ちや直進して来る車への接触に注意しなければ、やはりぶつかる。

一瞬のうちにいくつかの確認をしなければ事故になるし、左折そのものができない事になる。ラッシュアワーに後退する事もできない。

その困難をどう乗り切るか?

細心の注意をしながら、状況を判断し、悠然と運転する。

それ以外には無い。と言う事を発見した。
それは、他の危険な場面でも同じだと分かった。

しかも、法廷内速度で安全に飛ばせるところはしっかり飛ばす。結果、大して遅れもしないと言う事も分かった。

そう確信すると、何やら大型バスを運転する事に充実感を感じるのだ。土台、乗り心地も小さなバスより良い上に、ちょこまかしないで良いのだから気持ち良い。私に合っているとすら思う。

ようやくの事ではあるが、昨晩は疲れより充実感を感じながら仕事を終える事ができた。


(今日の夜明け。)


悠然ととは、身体も心も清められてゆったりと落ち着いた様子の事だと言う。

私の小学校低学年の頃の先生からの指摘事項の一つは「落ち着きが無い」だった。どうしてだったのかは、今なら分かる。両親のと言うか、父の母への暴力が酷かった。父を嫌いでは無かったが、母の事をいつも心配していた。暴力から母を守ろうともしていた。だから、心が不安定で、落ち着いていられる訳が無かった。

私は、仲間たちと一緒に理不尽に思う事や困難とは徹底的に闘ったが、人との争いは嫌いだった。闘いと争いは違うのだ。

個別の争いがあると、私の心は動揺して不安定になる。だから、争いは例え口論だろうと苦手なのである。

一人暮らしは、寂しくもあるが争いから自由だ。私の心の安定と共に、細心に悠然とが成り立っていると思う。

どんな小さな対立や争いも、子どもの心は不安定になると言う事を知っている。だから、いつも対立したり、争いにならないためにはどうするかと発想する。

運転でも、人付き合いでもそれは同じ。
争い、憎しみ合ってもどうせみんな死んで行く。ならば、どうしたら心を通い合わせられるかを考える方に意味を見出す。


(今日のランチは、チャーハンにして見た。中華鍋が無いのであまり上出来では無いけれど、谷中のお土産チャンジャがバッチリ合った。スペアミントティーがまた合う。名付て「チャチャチャランチ」。料理も対立させたら美味くないと思う。)


そう言えば、20代の頃一緒に闘っていた仲間から「あの若者は凄い、ちゃんと人の目を見て話す人だよ。と(彼の知人の医者が)言ってたぞ。」と言っていた事を思い出した。

毎日送迎している人たち一人一人に運転席から顔を向けて、お顔と目を見ながらあいさつしているとだんだんと私の目を見ながらあいさつしてくれる人が増えて行くのが分かる。

なので今日も気持ちの良い朝の乗務だった。やる事があっても、忙しくても、そこはなおざりにしないと思っている。相手をなおざりにする事だから。やる事はそれからやれば良い。それでも全然遅れない。それも発見だ。

さてそろそろお迎えのバスのために出掛ける時間になった。みなさんの疲れが少しでも癒える様に、お顔を見ながら迎えて送りたいと思う。


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