辻川慎一つくば便り

色々とつながる。

みな様、子供の日ですがいかがお過ごしでしょうか?

私の方は、明日が仕事でもあり静かに過しております。

ブログをフェイスブックにも載せはじめたのですが、JR時代にお世話になった先輩とつながる事ができました。

私は、20代で駅の小荷物扱いや踏切番、貨物の構内作業を経験し、水戸機関区に移り電気機関助士から電車運転士になりました。

1987年に国鉄が分割民営化されJRが発足したのですが、それに反対する労働組合を立ち上げたと言う事で28才の時から鉄道本体業務を外されました。

それから駐車場管理、福島県いわきの旅行センター「分室」、東海駅そば屋、勝田駅ホーム売店と52才になるまで24年間隔離されていました。

仲間たちもバラバラにされましたが、私が初代委員長でしたので仲間たちより良い待遇を受けようなどとは一切考えませんでした。

会社と渡り合う時は、組合の仲間たちの事であり自分の事を頼むなどと言うのは恥だと思っていました。


(「パン検台」と呼ばれる緑色の台に登ると空が広く、阿武隈山地が気持ち良く見えました。)


私が自分の事を主張したのは、外注化のために関連事業が全廃になった時でした。

嫌がる会社をねじ伏せて「勝田車両センターに配属しなさい。」と言った時です。

何故かと言えば24年間引き離された仲間たちがいたからです。

会社は、私が仲間たちと一緒になる事を恐れました。

私は、その会社の「期待」に仲間たちと一緒に応えました。

定年になるまでの8年間は、24年分を取り返す様な輝ける日々だったと思います。

その結果、60才再雇用の条件として出されたのは私だけ車両センターから排除すると言う内容でした。

私は、その不当性に屈さずにギリギリまで闘いJRを去る事になりました。

再雇用された方が経済的には安定でしたが、私は私のスジを通した訳です。

こうして、62才で大型二種免許を取り、新人バス運転士に挑戦する事になりました。
 

(今朝の小さな発見。福来ミカンの葉で休む「ショウジョウバエ」。いわゆる蝿とは違い遺伝子の研究に欠かせない昆虫なんですね。)


新しい挑戦には嫌という程の失敗が付きものなんですね。

たぶん人生は、新しい挑戦と失敗と反省の連続なんだ。
だから一緒に生きる家族や仲間たちが居てくれる事で、自分として超えて行く。

そうやって死をも超えて行く様に思います。死んでも仲間の助けが必要なんですものね。

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