雨が降ったり、晴れたりと忙しい天気です。
それが植物には最適なのか、生き生きとしています。

(庭のスダチにてんとう虫がおりました。)
11年前の巨大地震、津波、原発事故を体験したはずなのですが、その脅威よりも「自分が労働組合で何をすべきか?」みたいな事ばかり考えていたせいか、何だかリアリズムがありません。
勝田車両センターで、被曝した電車を線量も測らずに検査、運用する事に激しく抗議して闘ったのですが亡くなられた人たちや批難を余儀なくされた人々に本当に寄り添うものだったのかと思います。
身内や近い人を亡くされた子供たちが「自分は生かされている。」「感謝しながら生きたかった人の分も生きる。」と辛い経験の中から、生きた言葉を発して来たことと、私の経験や言葉はズレて来たのではないか?
2013年に息子が自死して、地獄の様な悲しみと無力感に襲われても、自分が彼の分生きなければとはならないで来ました。
彼の死を受け止められないで来ました。それは、彼が生きて来た事を本当に尊重して来たのか?と表裏のことでは無かったのか?
抱きしめて可愛がったのはもちろんなのですが、我が子としてだけでなく人としてその生を本当に尊重できていたのか?
それは、いかに周りから強く見えても私自身の存在の希薄さでは無かったのか?
(妻がカットしてくれました。)
水戸市出身の渡辺裕之さんが、縊死された。突然どうしてと誰しもが思うのかも知れません。私の方は、縊死と聞くと息子の姿がフラッシュバック致します。
渡辺裕之さんも優しくタフなイメージをキャラにしていましたが、そんな人は存在しない。
みんな弱るし、悩む。
ところで、人に合わせてぶつからないのは優しさなんでしょうか?
労働組合や政治党派を巡って散々バトルしながら、内部関係では対立を嫌い、良い人になろうとしてきた。

それは、組織のためではあっても本当に相手のためであったのでしょうか?
いつの間にか、イメージと自分自身が背理して「死にたい」と思う様になっていました。
闘争神阿修羅の顔は、甘い優しさが本当の優しさで無い事を示してはいないでしょうか?
人の生と死を巡って本当に真剣な闘争がある。人に対する自分の姿勢が問われる。
震災のもう一つの真理は、人を助けるために自分の死を恐れなかった人たちがたくさんいたことです。
阿修羅の様に立ち向かった様に思います。私たちは、そう言う人たちの存在があって生きている。