辻川慎一つくば便り
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色即是空。
ゴールデンウィーク前の仕事の山場です。プライベートな問題もあり心身ともにかなり疲れます。
それでも職場に行けば同僚たちと笑顔で語り合い、運転は運転で集中する事ができる自分を見て、ようやくプロに成長出来てきたかなって思います。言い訳が効かない仕事ですから。
(一心不乱なハナムグリ。)
「◯◯さん。私も離婚して同じお一人様になりましたよ。」と同僚の一人に話しかけました。
「全く辻川さんは、俺に嘘ばっかり言うんだから。」と同僚が笑います。
「嘘じゃありませんよ。自衛官さんなら信じてくれますよ。」と側にいる自衛官さんを見ました。
すると「辻川さんとは師弟関係ですから」ときまじめに答えて下さいました。
「自衛官さんは、先生がたくさんいて『神ってる』人ばかりですからね。」と私。
「すると辻川さんは神様の先頭にいるんだ。」と◯◯さん。
「神様って言うより、そろそろお迎えが近づいてますね。お迎えに来てくれる仲間たちがたくさんいるってのも楽しい感じですよ。」
仕事前に暗い話しは致しませんので、何でも笑い合う様に致します。
「でもね。1年くらいは1人暮らしも良いと思うけど、仕事しながら自分で全部やっていると惨めな感じがして来るよ。」と◯◯さんがアドバイス気味に話してくれました。その気持ちは受けながら「じゃあ1年くらいは、1人暮らしを楽しもうかな〜。」と笑います。
まあ、炊事や掃除洗濯のために一緒になった訳ではありませんでしたし、お互いに心が合わないと分かった結果ですので、自分の身の回りの事は自分でやる習慣にすれば良い事だと思っております。
「色即是空」って有名な般若心経の冒頭ですね。
「色」と言うのは、ものや全てのあるものを指し、「空」と言うのは全て移ろい変わって行くと言う意味らしいです。つまり、万物は変化すると言う事。その中には心も含むのですね。しかし、全てが変わってしまうから虚しいと言う事ではありません。変化する自由の中で、今がある。今と言うのは一瞬も留まっていない。そこに生きていると言う輝きがあると言う事です。
それを固定して、こうでなければならない。なんて考えて人に強いたりする事を「反動」と言うのです。
反動と言うのは、変化し続ける自由と言う生命のダイナミズムに反するので崩れ去るしかないのです。
そう言う事なんですね。
(昭和40年から50年頃に流行ったステレオって、こんなでした。)
もう、先に逝ってしまった親しい仲間がたくさんいる私には、たくさんのお迎えが「辻川。待ってるぜ。」って待ち構えているし、後からも「辻川さん待ってろよ。」って来るのも分かっております。
なのでお一人様になってまず楽しみたい事って何だろう?って考えました。
昔学校やバイトから帰って父が買ったステレオで好きな音楽に浸りながらうたた寝をした事の快楽を、また味わいたいな〜。そんな事を思います。
好きな本に夢中になり、好きな音楽に浸り夢を見る。
ステキじゃないですか?
チャイコフスキーの「悲愴」なんて言う交響曲は、静かな導入にうとうとしていると突然雷鳴みたいな曲調に変わるのでびっくりして飛び起きたのも思い出ですね。
人のために、誰かのためにって自分が先頭で頑張れる年では無くなりました。一歩さがりながら、誰かの心の支えになれたら本望だと思います。
70才近くになり、あっという間に2度目の離婚。まさに色即是空。波乱万丈な人生が終わる保証もありませんので、つかの間の1人暮らしになるかもしれません。1年くらいは、静かな1人暮らしを味わえたら有難いな〜なんて願います。
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2025/04/24 14:11
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習慣は人を裏切らない
めんどくさいな〜。煩わしいな〜。って、運転だけではないいろんな作業がバス運転士にはあります。
で、最初の頃は抜けてしまう事が多いのですが、毎日意識的に習慣化して行くとそのうちに意識しなくてもやれる様になる事に驚きます。
人間の対応力の凄さを感じたりする訳ですが、人を人足らしめているのは、実は習慣の力なのだと詩人の長田弘さんが言っていたのを思い出します。
どんな事でも習慣にしてこつこつやり続ける事が、実は自分を作っていると言う訳です。
自分が自分をどうイメージするかとか言う問題ではないのですね。
(「福禄寿」と言う人気中華料理店の「サラダ冷やし中華」。野菜たっぷりでヘルシーな上に麺もグッドでございます。)
例えば、年を取ると姿勢が悪くなるのは仕方が無いと思われますが、正しい姿勢を習慣付けていないだけかも知れません。
身の程知らずにも、一昨年の夏に美味い美味いと毎日ウイスキーの炭酸割りに氷をぶち込んで飲み続けておりましたら痔の具合が悪くなり、回復するのに1年以上掛かりました。
これなんかは身体に悪い習慣なんですね。一時は年のせいで治らないなんて悲観したりしたのですが、単なる不養生の結果と言う訳です。
もちろん完治はしてないのですが、良い習慣をつけて行く以外に誰かが治せると言う訳では無いのですね。
何事も、直そう、変えようと思うならば習慣化していくしか無いと言う訳です。
年齢は関係ない。いくつになっても人を人足らしめているのは日常を土台とする習慣の力なのです。
ルーティンって大事なんですね。
なんでも簡単に手に入って、便利になってその分の時間も手に入る様になりました。
(自己愛丸出しでしょうか?鉄道職場の仲間たちのところに戻る!と35才から始めたこつこつ筋トレが今も続いております。)
で、その時間は何をするのでしょう?
赤信号に猛然と突っ込んだり、突然横から飛び出したり、肝を冷やす事が少なからずあります。
衝突事故が毎日の様に起きる訳です。で、命の危険を冒しながら手に入れた時間で何をしたいのでしょうね。
良く考える時じゃないでしょうか?
習慣のための時間て、より充実した良い時間を過ごすためにある。
それから無心で、打ち込む事自体かわとても充実した時間の様に思います。
だから急いだり、端折ったりするのはもったいないのだと思います。
まあ、そう自分に言い聞かせながら急ぐ自分を戒めているのですが。
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2025/04/23 14:13
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輝ける記憶
朝会社に出勤しますと、観光バスの運転士総員出動状態でした。出庫に向けてバスが並んでいるのはかなり壮観な感じがします。
聞けば他社のバスも動員して20台近いツアーを引っ張って行くとの事でした。
「全部でつるむのですか?」と聞きましたら「まさか、20台もバスが続いていたら邪魔だよ。何台かの班に分かれてうちの運転士が先頭で走る事になるんだよ。」と説明してくれました。
もちろんスクールバスや企業送迎バスもフル稼働ですので、車庫が空っぽ状態になります。
そんな時には、私も含め一人一人が戦力になっていると言う実感が致します。
(車庫脇の木立も、新緑でまばゆく感じます。)
しかし、では私が絶対に必要かと言えば、そうではありません。バス運転士不足とは言え、取り換えは利くのであります。なので「俺は必要とされている。」となると誤解でしかない訳です。
人間が他の動物と違っている点の一つに、自分が社会や誰かに必要とされ、求められていると言う自覚無しには淋しくて生きられないと言う事があります。
会社でも、家族でも、自分が必要とされていると感じられる事に喜びを見出すのです。その究極が恋愛関係ですね。あなたしか無い!と言うのですから、もう死んでも良いくらいの深い喜びになる訳です。
ところが、それも現実には終わって行く。悲恋であろうと成就しようと終わりが来る。命も関係性も永遠では無いからです。
自分が必要とされていないと言う恐怖感が深過ぎると、度を超えた嫉妬や支配、干渉をする事になってしまうのだと思います。
(大きなモミジの木。愛車がミニカーに見えます。)
壮観なバスの隊列も、運転士さんたちも、輝いて見えるのはその場、その時なんですね。
世の中のどんな関係性にも永遠は無い。その場、その時の必要性しか現実には無いのです。
会社が傾けば終わり、大事故や天変地異が起これば終わってしまうのですから。
でも何とか自分の必要性を社会や会社や誰かに認めてもらいたいと頑張るのですね。
まあ、その情熱で人の社会や歴史が作られて来た様に思います。
ただ、必要とされる事がずっと続く訳であありません。それは誤解なんです。
頑張っても頑張っても、通じない時もあるのが現実です。
で、結局は自分を一番必要としているのは自分自身なんですよって自覚する事が大切なんじゃないかって思うのです。
自身を必要としない?自分を大切に思えない?そんな人が、他の人に取っても自分自身が大切なんだなんて思えるはずが無いのですから。
「自分の事しか考えない人」と言われてしまう人は、自分の事を受け入れられないから他の人を受け入れられないだけの様に思います。
自分を大切に思えるから、他の人も同じなんだと大切にできる。
そうすると永遠なんて無いからこそ、この場、この時の関係性が永遠の記憶の様に輝く。その記憶の中に幸せな自分が生き続けるんじゃないのかな。
それぞれが大変な事も抱えながら、輝いている。まあ、私も大変さは同じだから、余計に感じる様に思います。
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2025/04/22 15:27
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清々しい朝、清々しい孤独。
晴れた朝の空気が清々しいですね。
出勤途上の山林に、藤の花がたくさん咲いて垂れておりました。
手入れされている感じではありませんが、それはそれで季節の風景として楽しませて頂きます。
バスの運転も、朝はとても気持ち良く感じます。新緑の木々や次々と咲く花たちに、なんて豊かな自然がある国なんだろうって思います。
広島に原爆が落とされて「100年は草も生えないだろう。」と言われていたそうですが、あっという間に雑草だらけになったと言います。
江戸時代に日本を訪れた海外の人たちは「緑の国」として驚いたとの事です。
その自然の豊かさに甘えて、欧米を見習い追い越せと荒らし続けて来た傲慢さを反省し、自らを見直さないととんでもないしっぺ返しが来る様に思います。
清々しいには、いろんな言葉が続きます。「清々しい孤独な時間」だったり「清々しい貧しさ」なんて言うのもあります。
一人でいる事が悪い訳ではありません。一人の時間を大切に持てない人は、他の人の時間を大切にできない。
多少自由になるお金があっても清々しくない人もたくさんいますね。
要するに心の問題なのだと思います。
「清々しい人」とは、心がすっきりとしていて、爽やかで気持ちが良い、または、素直で誠実な態度を持つ人、または、困難を乗り越えて達成感を感じている人のことを指します。
とありました。
要するに、人の清々しさと言うのは心の持ち方なんですね。
5月の風や風景の様に、私も清々しくあれたらなと思います。
野原を良く見ていると見つかる小さなネモフィラの様な花。「オオイヌフグリ」なんて可愛そうな名前が付けられております。
別名は「星の瞳」。その方がしっくり来る可愛い花です。
ちなみに実がなるとこんな形をしているので犬の「フグリ」つまりたまたまちゃんにされちゃった訳です。まあ、これはこれで可愛いと思います。
色々と人の嫌なところばかりを見てばかりいると、自分の心が乱れ、人相も悪くなるばかりの様に思いますので、結局良い時間にはなりません。
限りある時間をどう生きて、過ごすのかは任されていますね。
何があろうと懸命に小さな花を咲かせ続けている植物を一人愛でながら、そんな事を思います。
それから、こんなのを見ているとやっぱり宇宙があるよな〜って思います。
「ヘラオオバコ」の花にも小さな宇宙を感じてしまいます。生命は宇宙から来て進化して来たんだな〜って感じます。
何も凄い景色ばかりを良いとは感じない私がおります。
偉い人ばかりが凄い人である訳ではないのと同じ様にです。
成し遂げられた事は何もない。失ったものはたくさんある。でも失いながら得て来たものはある。自分の心の世界は広がり続け、深くなって来た。
だから清々しいものを清々しいと感じる時間を得ているのだと思います。
それを共に感じてくれる仲間たちがいる。
それぞれに孤独な時間がある。だからお互いを大切に思えるのだと思います。孤独をしっかりかみしめるからこそ、人を愛おしく感じられるのだと思います。
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2025/04/21 15:02
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愛はきらめきの中に
「いつかは別れの時が来るんだよ。」と85才になっても90才になる父を乗せて、車を運転し買い物や病院に連れて行く母の言葉です。
「ご近所にパトカーが3台も来たよ。昔だったら家だったのに。お前が危ない事ばかりしてたからね。」と言う。「そうだね。心配ばかりかけてしまったね。」と謝る私。
そして警察にマークされなくなった今も「バスの運転は大変だから気をつけてね。余計な事は考えないで。」と別の心配を致します。
もう「大丈夫だよ。心配無いよ。」とは言いません。「分かったよ。気をつけるね。」と返します。
気持ちは、はね返すのではなく受け入れるもの。私にもようやく分かって来た様です。
ワンパターンだと言いながら、私が訪ねると好物の料理を並べてくれます。
調理師の免許も取って小料理屋をやった事もありました。お客さんは入っていたのですが、長年の夢が叶ったからとやめてしまいました。
大型自動車の免許まで取りましたので、運転にも厳しい人です。
父と子どもがいなければ別れていたと言う母の人生や心について、ちゃんと聞いて来なかった事を反省しております。
いつも感心するのは、安売りを狙って買ったと言う花を、毎年咲かせている事です。シクラメンが満開で、間もなくバラが咲き始めます。
鉢の土も買った時のままだと言うのですから、信じられないくらいミラクルです。
でも私には分かる気がします。
花にも心から語りかけているに違いないのです。
仏壇の息子(母の孫)に毎日ご飯とオカズを上げながら「武人、いつも同じでごめんね。今日は◯◯だよ。」と声をかけております。「武人が可愛そうだから」と言います。
花も毎日世話をして、言葉をかけているに違い無いのです。花にも心が通じるから、花を咲かせてくれるのだと感じます。
私は、その母の子でありました。
実家の本棚に置いてあった、瀬戸内寂聴さんの本を再読し始めました。
やはり、年を重ねてから読み直すと以前とは違いますね。
「人は別れるために出会うと言う一語につきる。…もし、永遠に滅びない生命であったら、それは何と苦しい事だろうか。もし永遠に衰えない恋があったら、それは何という刑罰であろうか。滅びる約束があるからこそ、一日一日が惜しまれなつかしいのであり、衰えることわりに支えられているからこそ、刻々の愛がきらめくのである。」
母との出会いと言うのは、生まれてから最初の人との出会いと言えます。出会った時から、別れる定めになっている。でも、永遠の様に錯覚して、その愛を当たり前の様に感じてしまうのです。永遠の別れが訪れてから、ようやく取り返しが付かない事に気付く。
衰え、やがて滅びる事から目を背けたり、考えない様にしたりするのでなく受け入れて行く事で刻々の愛はきらめくのだって事が分かる様になって来た様に思います。
母や父の言葉や心をようやく素直に受け入れられる様になった私がおります。静かでありながら、きらめく様な時間を共有して参りました。
https://youtu.be/pIZqE45dRhU?si=gShT-L7cpb0J0VDL
そう言えば、私が好きだったビージーズの曲に「愛はきらめきの中に」と言う歌がございました。
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2025/04/20 16:42
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