辻川慎一つくば便り

暴力で人の心を開くことはできない。(新幹線殺傷事件判決に思うこと)

23才の青年が、新幹線で3人を殺傷して無期懲役の一審判決が出たことが話題です。

私たち乗客の安全に責任がある労働者に取っては、特に深刻な問題です。

私なら?やはり乗客である子供たちを守るために、暴力に立ち向うと思います。

それは、労働者として、一人の大人としての社会的責任だと思います。

しかし、その上でこの23才の青年の「生まれてから何も良いことは無かった。」「誰も私を分かっても、守ってもくれなかった。」とでも言う様な心の叫びが「刑務所に入りたかった。」の言葉に凝縮されている様に感じるのです。この絶対的とも言える孤独感は一体何なのでしょう?

考えてしまいます。


(守谷SAにて一休み)

「暴力は、何よりも振るう人の人間性を破壊する。」確かドフトエフスキーと言うロシアの作家が「死の家の記録」で言っていたことです。自分の獄中体験から書かれています。


新幹線殺傷事件の犯人は、他者を殺すまでにその人間性を破壊されていた。それは一体何故なのか?

そこまで、接近しないと「人を守る」あるいは「乗客を守る」と言う仕事と、自分自身が人として生きる意味がつながらない様に思うのです。




例えば、他人の家を訪問する時とても気を使います。なのに、人の心の場合ズカズカ踏み込むことには気を使わない。

ノックもせず、本人了解も受けず当たり前の様に入り、自分の思い通りにならないなら暴力にすら訴える。それだと強盗と同じではないのか?


しかし、心の場合には正しいことを教えるとして制裁や暴力が正当化されてはいないのでしょうか?

それなら人は、心の鍵を締め侵入を防ぐため防御を強くするしかありません。

それは自分が自分であるためにであり。自分が人であるためにです。心を閉ざすのは人間だからなのです。

それでもなお、人殺しだからと心を土足で踏みつけられるとすればやはりまた人殺しをするとなるのではないか?

そこに敏感な故に凄まじく傷つけられ、孤独な心を感じるのはおかしいのでしょうか?

(筑波連山。青が綺麗に撮れました。)

私にいつも優しい先輩たち。新幹線殺傷事件裁判の報道を見ながら


「最近のガキは、言うことばかり達者で何もできない。ダメなことはダメだとぶん殴って教えるべきなんだ。」

「韓国みたいに徴兵制をやれば良いんだ!」

「俺なんか革のスリッパで先生から殴られたんだ!」

そう言います。 
風邪で熱もあり、そのまま聞いていました。

しかし、言うことばかり達者で何もできない人って実はお年寄りそのもの。

自分自身も間もなくそうなる。兵士も無理。何の役にも立たず(決してそうではないけど)口だけになる。だったら自分は暴力的虐待を受けても良いのか?と伝えたかったのです。

実際にそうなって来ていませんか?

子供にも、大人にも、そしてお年寄りにも人間には心がある。心は暴力で開かれることが無いのはみんな同じなのです。

他者への暴力を肯定する人は、自分の人間性をまず破壊する。暴力に立ち向かうことは、暴力の根本的否定無しに貫けません。小さな時からDVを憎んできた私はそう考えるのです。

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