辻川慎一つくば便り

多様性ってなんだろう?

みなさんおはようございます。
労働者を画一化し、数値化することで経済成長を追い求めて来た人たちが、その限界がくると「多様な生き方の時代だ!」と言う。

多様化と言っても選択肢は国や企業が提示する物や進路しかない。マジメに追い求めて、借金したあげく非正規雇用と言う「自由な働き方」が待つ。

それを批判する側も、国が悪いだの安倍政権打倒だのしか言わない。そもそもそんな選択肢しか無いのでしょうか?誰かのせいにして済ます人たちの怖さは、実は自分が無いので全て他人のせいにすること。

労働者や民衆のせいにして済まそうとする。そんな人に権力を持たせれば、またしても恐怖政治のはじまりです。


(あちこちで一面の菜の花が咲いています!)


JRを離れて2年半が過ぎました。同僚だった動労水戸の組合員から「ブログを見ると離れた感じがしないので続けて欲しい」と言われ、嬉しい気持ちで上げ続けて来ました。

最近は、ブログにコメントして下さるだけでなく、丁寧な補強までして下さる人がいて驚いています。正に多様な方が見て下さっていることを実感しています。なかなか会えないJRの青年も、直接メールで感想を伝えてくれます。

月間ですが15000回見て頂き、5000人が訪問してくれています。ありがとうございます。


(土浦市の「乙戸沼」から見た筑波山です。桜の名所とのこと。もう少しです。)


多様性って、地球の自然が「多様」ですから、生物も驚くほど多様だし、人間も多様。当たり前と言えば当たり前なんだけど画一化して、数値や記号にして何でも解明できると考えて来た近代の人間が、どうしても分からないことがあると思いませんか?

それは、自分自身のことです。私は、自分があまりに多様で分からない。人は良いことでも悪いことでも「あいつは、こんな奴だ!」と結構勝手に決めて分かった様なことを言うのですが、自分で自分のことを分かるんでしょうか?

分かってると思う人って、自分自身を作られたタイプに当てはめて画一化や数値化して見ていないのかな?それを他の人にも当てはめてスッキリさせている。

だとするとやっぱり、多様でもないし、自由でもない。自分って、夜疲れ果て「なんのために生きてるんだろう?死にたい。」って思う自分がいたり、朝の日差しを浴びて「さあ、今日も頑張って見ようか!」って自分もいる。全然一様じゃない。

色んな自分がいて生きている。だから自分自身が多様なんだと思う。多様な自分があって、多様な他者がいる。その多様な他者が、「私」を気にかけて働きかけて来る。その嬉しさで、あ〜自分は生きていて良いんだ。生きていて良かった。

そんな風に感じるんじゃないか。


(「地位も金も名誉も」無い私を気づかい、米や立派な野菜をくれる人がいる有り難さ。)


「近所の駄菓子屋さんともんじゃ焼き屋さんが閉店したけど、安倍自民党政権が悪いと言って党派の人たちは終わりですよね。」

とメールが来ました。

安倍総理も自民党もブルジョワ(金持ちと企業)の代表ですから、労働者や庶民が優先でないことは当たり前のこと。労働者や庶民も生活しなければならないので簡単には動けないし、声も上げられない。

でも、誰かのせいにしていたらやっぱり自分を生きることにはならない。自分に拠ってないのだから自由ではない。多様な自分に拠れないのに、多様な生き方もへったくれも無いんじゃないか?

動労水戸や、他の労働組合の経験は、企業や国家にはできない多様な一人一人がお互いを気づかいながら一つのことを、大きなことを成し遂げることができることを学ばせてくれました。自分に拠る人は、人のせいにはしませんね。自分の人生だもの、自分がどうするかです。

隣の労働者でも、近所のオッサン、オバちゃんでも気になる人には声をかけ、できることがあれば協力を呼びかけたり力を貸したりする。

すると「あ〜、生きてて良かった!」ってお互いに感じるんだよね。そして労働者の仲間は多様で狭くない。それが、労働組合の原点だし普遍性だと思うのです。

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

カテゴリー

P R