辻川慎一つくば便り

まさのり君の思い出

幼なじみにまさのり君がいた。一緒に学校から帰り、木登りをしたり、長屋の屋根に登りたくさん語り合った。

屋根からは、常磐線が見え、太平洋が見えた。高いところから、自分たちの未来を想像し合った。常磐線には「はつかり」が走っていた。日立市の鮎川と言うところです。

いつか海を渡る様に思ったけれど、まさか鉄道に入り、「ゆうづる」を運転して走るとは思いませんでした。私は鉄ちゃんではありませんでしたし、ましてバスの運転士になるとは想像もできませんでした。


(ディーゼル特急「はつかり」。故障が多く、よく止まっていました。)

ある日まさのり君の家に寄り道すると子犬がいました。子犬を交えて一緒に野原を駆け回りました。

「また遊ぼう!」と次の日まさのり君の家に行くと子犬がいません。どうしたのか聞くと、家の冷蔵庫を開けました。そこに肉のかたまりがありました。

まさのり君の家の方が、子犬を屠ってしまったのです。一緒に子犬と遊んだ鮎川縁の谷には内臓がぶら下がっていました。悲しみよりも、衝撃の方が強かった。


(かつて私も運転した寝台特急「はつかり」)


今私達は、大量の肉を買い、平然と食べていますがみんな屠った動物です。

子犬を屠って食べてしまったことをはたして、野蛮だと言えるのかどうか?私達は命を食べさせてもらい生きています。

私が幼い頃、老人は家で死ぬのが普通だった様に思います。亡くなると家で葬儀を行いました。

動物の死も、人の死も身近にあった。生きることと死ぬことは別でなく、死が生きると一緒にあった様に思います。

死を見ることは、人の心を深くします。死を軽んじることは、自分の生を失くすることに他ならない様に思います。

死を遠ざけ、暗がりを無くせば生きることの陰影も失うと言うことに気付くべきではないでしょうか?


(雲に霞んでいた今朝の筑波山頂。)


人の生と死は切り離せない。死を見据えることで、生きて来た。それが、人の歴史だと思うのです。ですから、死を軽んじる人や社会は、決して人を生かすことはできないのではないでしょうか。

結局、私が合わなかったのは、そう言う人や組織に他なりませんでした。

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